戦後80年 空襲が奪ったのは人命だけではない 終戦までの3カ月で失われた7つのかけがえのない天守
一瞬にして残骸の山になった広島城天守
大垣城が焼失した時点で、すでに終戦まで半月あまりだったが、さらに3つの天守が失われてしまった。
8月2日には、これもまた徳川御三家の居城だった水戸城(茨城県水戸市)の三階櫓が焼失した。この3重3階の建築は呼称こそ「櫓」だったが、幕府への遠慮から天守と呼んでいなかっただけで、事実上の天守で水戸城のシンボルだった。
その4日後の8月6日午前8時15分、広島市の約600メートル上空で炸裂したのが原子爆弾だった。広島城天守は火災にこそ遭わなかったものの、爆風によって一瞬にして残骸の山になった。
この5重5階の天守も、とりわけ貴重な文化遺産だった。秀吉の大坂城や聚楽第を見て衝撃を受けた毛利輝元が、それらを模して建てたとされるこの天守は、秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)のために肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に向かう途中、広島城に立ち寄ったときには、すでに建っていた可能性が指摘されている。つまり建築年代は、岡山城よりさらにさかのぼる可能性が高かった。
ただ、残骸になっても焼けてはいないので、平時であれば木材を保存し、のちに復元することもできたかもしれない。しかし、原爆投下直後の状況で、木材の管理など望むべくもない。バラックを建てるための建材や薪などに使うために持ち去られてしまった。
立派な城ほど標的になった
最後に失われたのが、同じ広島県の福山城天守(福山市)だった。8月8日夜、大量の焼夷弾が投下された福山市内は火の海となり、城下町の面影を色濃くとどめていた美しい市街の約8割が焼失。福山城天守も焼け落ちた。
元和8年(1622)に建てられた5重5階の層塔型天守は、高さが26メートルあまりで天守の完成形といわれる。きわめて合理的な構造で、最上階が大きいわりに1階は小さく、その差が史上もっとも小さな天守だった。また、防御が手薄な北面は、大砲などによる攻撃に備えて、壁面に黒い鉄板が貼られるなど、多方面で唯一無二の天守だった。残っていれば、名古屋城、岡山城、広島城と並んで、間違いなく国宝に指定されていただろう。
現在、日本に現存する12の天守のうち、県庁所在地に建つのは松江城、松山城、高知城だけだ。一方、空襲で失われた7つの天守は、大垣城と福山城以外は県庁所在地の大都市に築かれていた。それらは江戸時代には有力大名の拠点だった都市で、重要な大都市であればこそ焼夷弾の標的になり、拠点都市ならではのすぐれた文化財もまた、被害を受けたのである。
7つの天守のうち水戸城を除く6つは、戦後20年あまりのうちに再建された。焼け野原になった都市の住人たちは、地域の、そして復興のシンボルとして天守を欲したのだが、いずれも鉄筋コンクリート造の外観復元にとどまる。当時は「二度と焼けないように」という願いが込められていたが、現在、建築から半世紀以上が経ち、耐震性や耐用年数の問題に直面している。
すでに名古屋城は木造再建に向けて進んでおり、広島城もその方向で議論されている。いずれ竣工するのが楽しみだが、しかし、文化遺産としての天守は二度と戻らない。
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