戦後80年 空襲が奪ったのは人命だけではない 終戦までの3カ月で失われた7つのかけがえのない天守

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アメリカのねらいは「地獄を引き起こせ」

 8月15日で終戦80年を迎える。昭和20年(1945)のことを思うたび、心が痛む。とりわけ、原爆を含む空襲を避けることはできなかったのか、と。日本がもう少し早く降伏していれば、どれだけ多くのものが守られたか。だが、仮に日本に非があったとしても、米軍が日本の都市を無差別に絨毯爆撃することなど、人道的に許されるはずがないのではないか。

 米軍はマリアナ諸島に大規模な空軍基地を建設すると、昭和20年3月10日の東京大空襲以降、焼夷弾を集中的に投下する無差別爆撃をはじめた。それに先立って、米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルドは、木造住宅が密集する日本の都市の特性に適した、焼夷弾による継続的な爆撃戦略を練り、戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンの「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったといわせろ」という提案を採択している(荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書)。

 その結果、太平洋戦争末期の半年足らずの間に空襲の犠牲になった人は、大規模空襲があった107の自治体が把握しているだけでも約38万7,000人におよぶ(毎日新聞調査)。しかし、いうまでもないが、犠牲になったのは人命だけではない。なかでも文化財が受けた被害は甚大で、それこそ世界遺産がいくつも失われるほどのレベルで、取り返しがつかないダメージを受けた。

 ここでは対象を城の天守に絞って、空襲で失われたものの大きさを確認したい。

天下人の天守ほか18棟の国宝が消失した名古屋城

 最初に被害に遭ったのは名古屋城天守(名古屋市中区)だった。5月14日未明の大空襲で、B29爆撃機の焼夷弾攻撃を受けて炎上した。現在、木造再建が進められながら、バリアフリー問題などもあって計画が遅れている名古屋城のそれは、数ある天守のなかでも特別なものだった。

 徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の居城に、徳川家康の命で建てられた5重5階の天守は、天守台の石垣を除いた木造本体の高さだけで36.1メートルあった。3代将軍家光が建てた江戸城(東京都千代田区ほか)の3代目天守、大坂夏の陣後に徳川が再建した大坂城(大阪市中央区)の天守に次ぐ史上3番目の高さで、延べ床面積では史上最大だった。

 築城工事がはじまった慶長15年(1610)は、大坂城に豊臣秀頼が健在で、徳川による天下は安泰とはいえなかった。このため家康は、豊臣秀吉が建てた大坂城をはるかに上回る規模の天守を、新造の名古屋城にそびえさせ、諸大名に徳川の力が巨大であることを知らしめると同時に、大坂を牽制したのである。それは総ヒノキ造りで屋根に純金の鯱が乗る点でも際立って豪華で、江戸城と大坂城の天守が17世紀半ば以降に相次いで焼失してからは、現存する唯一の「天下人の天守」だった。

 名古屋大空襲のその日まで、名古屋城には天守以外にも、武家風書院造の代表作だった本丸御殿をはじめ、24棟の国宝建造物があり、今日まで残っていれば、間違いなく世界遺産に登録されていただろう。ところが、天守をはじめ18棟が焼失してしまった。その日、天守には、空襲に備えて金の鯱を避難させるための足場が組んであり、そこに運悪く焼夷弾が引っかかり、天守全体が火だるまになったという皮肉な話も伝わる。

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