戦後80年 空襲が奪ったのは人命だけではない 終戦までの3カ月で失われた7つのかけがえのない天守
岡山城天守は安土城の面影をとどめていた
以後、3カ月に満たない間、天守の受難は続いた。岡山県岡山市は6月29日未明、大規模な空襲に見舞われ、市街地の63%が消失し、岡山城天守も焼け落ちた。石垣の築造技術が未熟だったがゆえに、平面が細長い不当辺五角形をした天守台に建てられた5重6階のこの天守は、古風で複雑な姿をしていた。
今日、全国に12の天守が現存するが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前に建てられたことがたしかな天守はない。一方、秀吉の五大老の1人だった宇喜多秀家が建てたこの天守は、確実に関ヶ原以前の建築で、400年以上前に焼失した織田信長の安土城天守や秀吉の大坂城天守の面影を色濃くとどめる、きわめて貴重な文化遺産だった。
7月9日には和歌山市を襲った大空襲によって、名古屋城と同様、徳川御三家の居城だった和歌山城の天守が焼失した。この天守は比較的新しく、嘉永3年(1850)に再建されたものだった。とはいえ、3重3階の大天守と小天守が連結し、さらに長屋形式の多門櫓で2つの2重櫓を結んだ大規模な連立式天守で、そのすべてが現存していた。また、江戸時代末期の建造物でありながら、江戸初期の様式を色濃くとどめていた。
続いて7月29日には、大垣城(岐阜県大垣市)の4重4階の天守が焼失した。白漆喰の総塗籠で、関ヶ原以後に登場した新しい層塔型(1階から最上階まで同じ形の建物を規則的に小さくして積み上げる形式)だが、歴史は古い可能性があった。元和6年(1620)に大きく改修されたという記録はあるものの、創建は関ヶ原以前にさかのぼる可能性があった。石田三成が関ヶ原での決戦前、大垣城を拠点にしていたとき、そこに建っていたかもしれない建築だった。
[2/3ページ]




