「師団長の遺体はゴミ焼却炉に」…“玉音放送の録音盤”を狙った反乱派の非道 「次郎物語」作者の息子が明かしていた無残な情景【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶

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単純ミスから企みを看破した連隊長

 一方、師団長殺害という大きな犠牲を払ってニセ師団命令を作成したものの、焦りによる単純ミスで、たちまち化けの皮が剥げる結果となったのである。下村氏が続ける。

「騎兵連隊も受領しました。ところが、連隊長の伊東力大佐は見るなり、“この命令は怪しい”と見破ったのです。“命令の順列は歩、騎、砲、工であるべきだが、騎兵の前に砲兵がきて、歩、砲、騎、工となっている”ということで、命令の真偽を確認するためにいろいろ手を尽くしているところへ、佐々木少尉が逃げ帰ってきて、実情が分かったのです」

 騎、砲入れ替えの単純ミスが生じたのは、玉音放送の録音盤奪取計画に関係があるのではないか、というのが下村氏の推測。

「録音盤がまだ宮城内の宮内省に保管されているのを探知して、反乱将校は近衛の歩兵を宮内省に投入しました。しかし、宝探しみたいなものだから、見つからない場合もある。そのときは、最後の手段として、砲兵隊で宮内省に砲撃を加え、建物ごと録音盤を破壊する計画だった。それで、頭に“大砲”がこびりついていて、つい砲兵を先に書いてしまったのではないでしようか」

81歳になり言い遺して置きたかった

 ところが、ニセ命令で出動した砲兵連隊は、まさか宮城で大砲が必要になるとは思わず、手ぶらだった。

「そこで、騎兵連隊の戦車中隊を出動させ、戦車砲で攻撃しようと画策したけれど、伊東連隊長の炯眼(けいがん)により、騎兵連隊は一兵も動かなかったのです」

 下村氏は『次郎物語』の著者、下村湖人の長男。慶応義塾大学卒業と同時に入営し、幹部候補生を経て少尉任官。陸士(陸軍士官学校)出身でないただ一人の連隊旗手だった。54年目にして初めて秘話を語ったのは、

「私ももう81歳になりましたし、このように一瞬の出来事で事態が逆転して、録音盤は救われ、今日の平和を招来できたという事実を、言い遺して置きたいからです。陸士出は、幹候(幹部候補生)上がりが何をほざくというかもしれませんがね」

デイリー新潮編集部

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