デビュー60周年の美川憲一、GLAYのTAKURO×B’z松本孝弘の“超豪華タッグ”と奏でる新曲で見せる“新境地” 「まだまだしぶとく、しぶとく生きるのよ~!」
1965年に「だけどだけどだけど」で歌手デビューし、今年で歌手活動60年となった美川憲一。インタビュー第1弾は、「さそり座の女」で見事再ブレイクしたこと、第2弾では、年末の風物詩となった『紅白歌合戦』での思い出などを主に語ってもらった。最終回となる第3弾では、60周年記念シングルとして’24年に発表された「これで良しとする」について聞いていこう。(全3回の第3回)
ファンからも大反響の「生きる」は美川が「どうしても歌いたい」と直談判
その前に、近年の美川の音楽活動の中で重要な位置を占めているシャンソンについて尋ねてみた。親交のあった淡谷のり子(’99年逝去)の勧めもあって始めたというシャンソンだが、今回のSpotify再生回数ランキングでも、第17位に「生きる」、第20位に越路吹雪のカバー「ろくでなし」、第27位に「朝日のあたる家」がランクインしており、いずれも美川のシャンソンアルバム『ドラマティックシャンソン』に収録されている(「生きる」は、後にシングル用に歌唱と編曲を新たに録音された)。
「再ブレイクしたころから徐々に、コンサートのメニューの中に1、2曲シャンソンを取り入れて歌うようになったんです。それと、’99年からは年に一度、『ドラマティックシャンソン』というコンサートをやっていますね」
シャンソンを始めた影響からだろうか、「北国夜曲」や「納沙布みれん」といった再ブレイク後のヒット曲は、’70年代に歌った楽曲に比べ、言葉がはっきりと聞こえるのだ。つまり、シャンソンを始めたからこそ、演歌もより味わい深くなったとも言えるかもしれない。
「そうだと嬉しいですね。『生きる』は、ピアノ1本でシンプルにじっくりと歌ったときでも、多くのお客様から“聴いていてシビれました!!”と言われるほど、反響があるんです」
確かに「生きる」は、仲間が次々と旅立つなかで、悔いなく生きようと誓う絶唱型のバラードで、サビの ♪生きる 生きる 今になって私は 生きることの 貴さを知った♪ という歌詞は、幾重もの苦難を乗り越えてきた歌手でしか歌えないほどの重みがあり、美川の歌唱にシビれる観客が多いのもうなずける。美川に、この歌を歌うようになった経緯を尋ねてみると、どのヒット曲よりも丁寧に語ってくれた。
「この歌は、フランスのアリス・ドナさんがお作りになったものに、矢田部道一さんが日本語詞をつけられたものを、シャンソン歌手の深緑夏代さん(’09年逝去)がとても大事に歌っていらしたんです。私は、初めて聴いたときからあまりに素晴らしくて、深緑さんに“先生、私に一度歌わせていただけませんか?”と何度かお願いしたのですが、“あんたはまだ若いから早すぎるわよ”と、私以外の方を含め、絶対に歌わせてくれなかった。人様には簡単に歌ってほしくなかったんだと思います。
それでもめげずに、何度目かのお願いの際、“次のコンサートのラストでどうしても歌いたいんです。1回だけ歌ったらお返ししますから”って言って、歌わせてもらうことに。そうしたら、そのコンサートに石井好子さん(’10年逝去)と一緒に聴きにいらしたんですよ。ご本人がいらっしゃったからには、”ここで一発決めてやろう“と魂を振りしぼって歌いました。そうしたら、終演後の楽屋で深緑さんが“あなた、よかったわよ。この曲、美川くんにピッタリと声が合うのよ。だから歌っていいわよ”って、なんと許可が下りて。
それで嬉しくて、その後NHKに出たときに『生きる』をさっそく歌ったのですが、著作権の関係で歌唱シーンがカットされちゃったんですよ。だから、今度はパリまで飛んで作者のアリス・ドナさんを探し出して、JASRACからも連絡していただいて、それでようやくCDにも録音することができました」
そんな何重もの困難を乗り越えてきた作品であることや、美川がお世話になったさまざまな恩人が昨今、天国に旅立ったことも、すべて近年の『生きる』の絶唱に繋がっているように感じられる。今後、さらに幅広く聴かれることを期待したい。
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