美川憲一、『紅白』の風物詩となった小林幸子との“豪華衣装対決”は「宝石まで全部自前。私から仕掛けた」 90年代再ブレイク時の思い出を語り尽くす
年末の風物詩となった小林幸子との衣装対決、「衣装は全部自前だった」
『紅白』には7回連続で出場した美川だが、再ブレイクまではどのように過ごしていたのだろうか。
「ブレイクするまでは、スランプに陥っていました。でも、自分がどうすればもう一度華やかな世界に出ていけるのかと模索して、温泉でもキャバレーでも、ありとあらゆる場所で歌っていました。私は割と、前向きに生きるタイプなので。その頃からしぶといんですよ(笑)」
ただし、’83年に各レコード会社から、’76年に韓国でヒットした「釜山港へ帰れ」の日本語カバーが競作として大量にリリースされ、クラウンからは美川版が発売されたが、ある音楽番組で、オリジナルである韓国歌手のチョー・ヨンピルと日本人歌手との共演が行われた際、美川は参加しなかった。当時、その曲を日本で大ヒットさせた渥美二郎以外は、“その他大勢”として歌の後半から大合唱で参加するという演出だったからだろうか。
「大勢のなかの1人として歌っても……と思って、その場所には行きませんでした。あの歌を出したのは、レコード会社に頼まれただけという意識もありましたし」
そうやって取捨選択しつつ、ここぞというチャンスには知恵を絞って、’91年に『紅白歌合戦』にカムバックした美川。そこから19回も連続で出場しており、これはレコードが大ヒットしていた最初のピーク時の連続7回より随分と長い。美川のようなケースは、異例中の異例ではないだろうか。また、連続出場となったのは、小林幸子との衣装対決や、プリンセス天功によるイリュージョンなど、美川の出場自体が年末の風物詩となったことも大きいだろう。
「19年連続は、自分でもすごいと思います。出場したときの衣装ですか? もちろん私の自前ですよ! 衣装だけじゃなく、ダイヤモンドなど宝石類もすべて自前で、すごくお金がかかっていました」
なんと! 光ファイバーやLEDライトなど舞台装置と一体化するほどの大掛かりな衣装も多かったのに、すべて自前だったとは!
「『紅白』出場が決まってからすぐ、スタッフと衣装の打ち合わせをするんですよ。1か月くらいの間にパパっと決めちゃって。それで、ある年から“サッちゃん(小林幸子)の豪華な衣装と張り合えるのは私しかいないわ”と思って、私のほうから対決になるようにすり寄っていったんです」
そうして美川の思惑どおりに、小林幸子との衣装対決は年々エスカレートしていった。
「どんなに衣装が重くても、歌詞をしっかり覚えて歌いましたよ。プロですからね。でも、“もうやりきった!”と思った頃に、ちょうどお呼びがかからなくなったんです。その時の衣装は、すべて処分しました。私はそういうところ、潔いんですよ(笑)」
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