「何で自分はこの舞台にいないんだ…4年ごとにこんな思いをする人生は嫌だ」 競技を辞めたはずの男がもう一度馬に乗るまで(小林信也)
10歳で乗馬を始め、高校、大学で日本一になった大岩義明は明治大学を卒業する時、競技生活に別れを告げ、就職の道を選んだ。未練はあったが、乗馬で暮らす未来は描けなかった。長く競技を続ける選手の大半は、実家が乗馬クラブの経営者か富裕層の子弟に限られていた。大岩はいずれでもなかった。父は自営業、その仕事を継ぐ気もなかった。
「ビル管理の会社に入りました。配属されたのは、夜中にレストランの厨房機器の虫を駆除する部署。ゴキブリ退治でした。厩舎で馬の世話をしていたせいか 、汚れ仕事がそれほど苦ではありませんでした」
運命が変わるのは、就職の2年後、2000年シドニー五輪がきっかけだった。
「開会式をテレビで見ていて、何で自分はこの舞台にいないんだろう……。そして、これから4年ごとにこんな思いをする人生は嫌だな、と思った」
大岩の中に“自分には馬と一体になる特別な感覚がある”というひそかな自負があった。競技への気持ちが募り、イギリスで厩舎を経営する大学の先輩に国際電話で相談した。翌春、会社を辞めてイギリスに飛んだ。
「最初は先輩の厩舎で下働きをしながら、馬に乗るチャンスを探しました。簡単には乗れなくて、植木の苗を育てるバイトもやりました。チャンスがなければ日本に帰って庭の仕事をしようと考えて、夜は庭のデザイン学校にも通いました」
自分の馬がいなければ乗ることもできない。そんな時、厩舎に馬を預けているイギリス人夫妻から、自分たちが行けない平日は大岩に乗ってほしいと申し出があった。やがて「試合のある週末も乗っていい、自分たちは応援に行く」と言ってもらって、小さな大会に出られるようになった。数年ぶりに馬術競技の〈選手〉に復帰した。
コンビの境地
大きなチャンスは03年に訪れた。JRA(日本中央競馬会)がヨーロッパで所有していた3頭の馬を日本に連れて帰ると決めたが、1頭が血液検査で日本に入国できないと分かった。
「ヨーロッパでこの馬に乗れる日本人選手はいないか、いれば翌年のアテネ五輪でチームが組める、というので私にチャンスが巡って来たのです」
イギリスにいたことで幸運が舞い込んだ。大岩は初めて自分の馬を手に入れた。16歳のヴォユデロックだ。
「馬術は馬と乗り手、コンビでの成績です。重要なのは馬とのパートナーシップ。自分の調子が良くても、馬としっくりこないと自信につながりません」
そしてこう続けた。
「私を育ててくれた3頭の馬がいます。最初が高校生の時、全日本ジュニアで優勝したティノという馬です。このティノが私に〈障害〉を教えてくれました。
〈総合馬術〉を教えてくれたのがヴォユデロックです。2日目に行われるクロスカントリーは過酷なレースですから、馬は相当疲れる。3日目の障害馬術に向けてどれだけケアして、どう助けてあげたらいいか、ヴォユデロックがその流れを教えてくれたのです」
それがパリ五輪銅メダルの礎になった。大岩の言葉で馬術競技の魅力の片鱗に触れた気がした。乗り手が馬を操るばかりではない。乗り手も馬に教えられて成長する。互いに支え合ってコンビの境地を高めてゆく。
「パリで乗ったMGH(所有者を示す冠名)グラフトンストリートは、コントロールが難しいということで私に乗るチャンスが来た馬で、コントロールさえできれば勇気があり力強く走れる馬でした」
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