「あんぱん」に登場 「手塚治虫」はどのくらい天才だったのか 19歳で描いた漫画の衝撃
19歳の漫画に唸る
戦前編では国家が個人の夢を奪い取ったが、戦後編では人々が希望を追い求めている。朝ドラことNHK連続テレビ小説「あんぱん」のことである。ヒロイン・柳井のぶ(今田美桜)の夫・嵩(北村匠海)は漫画家を目指している。だが、手嶌治虫(眞栄田郷敦)の漫画を見て、あまりの天才ぶりに愕然とする。どれくらい天才だったのか。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】
***
手嶌治虫のモデルは手塚治虫さん。1928(昭3)年に大阪で生まれ、1989(平元)年に逝去した。「天才」、あるいは「漫画の神様」と称された。嵩とそのモデル・やなせたかしさんより9歳若い。
嵩が第91回で読み、衝撃を受けた漫画は手塚さんによる『新宝島』だった。発売されたのは手塚さんが19歳のときの1947(昭22)年。当時の手塚さんはまだ大阪帝国大学附属医学専門部(5年制)の学生だったから、嵩は余計に打ちのめされた。
もっとも、『新宝島』に衝撃を受けたのは嵩ばかりではない。『サイボーグ009』の石ノ森章太郎さん、『ゴルゴ13』のさいとう・たかをさん、コンビで『ドラえもん』を生んだ藤子不二雄さんたちもそうだった(いずれも故人)。
全く新しい漫画だったからである。『新宝島』はピート少年が死んだ父親の遺品の中から地図を見つけ、それを頼りに宝探しをする物語。ピートが波止場へ向けてスポーツカーを走らせる場面から始まった。
手塚さんはこの車とピートをさまざまな角度から何度も描いた。斜めから、横から、後ろから。それによって車が本当に疾走しているように見せようとした。今でこそ基礎的な技法だが、『のらくろシリーズ』(1931年)や『冒険ダン吉』(1933年)など戦前の作品では考えられなかった。
加えて車やピートら登場人物を大きく描いたり、小さく描写したり。まるでアップからロングへと切り替える映画のカメラワークのようだった。
この技法により、2次元の世界である漫画に立体感と躍動感を生んだ。さいとうさんは『新宝島』を読み、「紙の中で映画がつくれる」と考えたという。
コマ割りも新しかった。それまでの漫画は1ページを4コマや6コマ、8コマ、12コマなどにほぼ等分割していたが、手塚さんは等分割の常識を無視。大小のコマをつくった。これによって車や人物などが大きく描きやすくなった。
まだある。手塚さんはあえて絵と言葉がズレる場面をつくった。やはり立体感が生成された。戦前の漫画は絵と言葉が一致していたものの、そのために言葉が説明調になりやすかった。今の漫画を読むと分かるが、絵と言葉を一致させる必要はないのである。
『新宝島』は本屋には並ばず、玩具店などでしか買えない子供向けの赤本だった。表紙が赤いから赤本と呼ばれていた。販売網が限られていたわけだが、それでも発売部数は40万部にも達した。大ヒット作になった。
一部に誤解があるが、この漫画は手塚さんの単著ではない。ストーリーは23歳年上の漫画家だった故・酒井七馬さんが考えた。版元の大阪・育英出版の判断によって2人の合作になった。
[1/3ページ]


