「あんぱん」に登場 「手塚治虫」はどのくらい天才だったのか 19歳で描いた漫画の衝撃

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アトムは当初、不人気

 修正力と先見性もあった。1951(昭26)年から『少年』(光文社)に連載された『アトム大使』は当初、あまり人気が出なかった。大ヒット作『鉄腕アトム』の前身である。

 やがて手塚さんは不人気の理由に気づく。アトムの売り物がケタ違いのパワーだからだった。これでは国内外に既に存在していたロボット作品と変わらない。

 連載が『鉄腕アトム』のタイトルで再スタートしたのは1952(昭27)年。アトムの風貌はほぼ同じだったが、内面が劇的に変わった。人間と怒りや悲しみを共有するようになった。普段はお茶の水小学校へ通うものの、ひとたび人間がピンチに陥ると、10万馬力のパワーで敵に立ち向かった。

 アトムには人工知能(AI)が組み込まれており、判断力がある自律型ロボットだった。60の言語が話せた。当時の大人たちには荒唐無稽な話だったが、現在のAIはアトムの頭脳を可能にしつつある。手塚さんはそれを見通していた。

『鉄腕アトム』はフジテレビでアニメ化された。放送は1963年(昭38年)の元日から4年間。第1回の世帯視聴率は27.4%に達した。テレビ界に第1次アニメブームが到来するきっかけになった。

 手塚さんは大喜びだったが、アニメ制作に当たった手塚さんの虫プロダクションはどんどん赤字が嵩んだ。当時のアニメ制作は金がかかり、いい作品をつくろうとするほど利益を出すのが難しかった。それでも人気が出たことに満足するのが天才の手塚さんらしかった。

 幅の広さも驚異的だった。まずSF。『鉄腕アトム』やライフワークだった『火の鳥』(1954年)、『ミクロイドS』(1973年)など。少女マンガは『リボンの騎士』(1953年)、食べると年齢を変えられる不思議なキャンデーを持つ少女が主人公の『ふしぎなメルモ』(1970年)。

『日本発狂』(1974年)などのミステリー、『バンパイヤ』(1966年)などの怪奇作品、『陽だまりの樹』(1981年)などの時代作品、『アドルフに告ぐ』(1983年)などのシリアス作品にも力を入れていた。

 シリアス作品の中で特に広く愛された不朽の名作が、1973(昭48)年から10年間、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載された『ブラック・ジャック』である。性転換や安楽死などを早々と取り上げ、これらの問題に真正面から向き合った。

 メインテーマは命や幸福とは何か。もちろん、医療の在り方についても考えさせた。

 この漫画はテレビドラマの世界も変えた。それまで医療ドラマの原作は故・山崎豊子さんの『白い巨塔』や故・渡辺淳一さんによる『白い影(原作は『無影燈』)』など小説ばかり。描かれるのは医者や看護師の人間模様が中心だった。

『ブラック・ジャック』は違った。医者と患者の存在の大きさはほぼ対等。患者の苦悩や哀歓も見どころだった。この漫画が1981年にテレビ朝日で初めてドラマ化され、好評を博すと、それ以降の医療ドラマは患者の存在が大きくなっていく。

 手塚イズムは今もドラマ界に生きている。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部

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