「あんぱん」に登場 「手塚治虫」はどのくらい天才だったのか 19歳で描いた漫画の衝撃
やっぱり天才
もちろん手塚さんにストーリーを考える力がなかったわけではない。手塚さんはこの1年前の1946(昭21)年、『少国民新聞』(現『毎日小学生新聞』)の連載4コマ漫画『マアチャンの日記帳』によって、プロデビューを済ませていた。小学校入学前のマアチャンを主人公とする物語でクスリと笑える。手塚さんはまだ17歳だった。
それだけではない。1948(昭23)年に出版された『ロスト・ワールド』(不二書房)を、旧制大阪府立北野中学(現北野高)に通っていた15歳のころに描いた。この時点で独特の描写技法は完成されていた。
この漫画で手塚さんが考えたストーリーはこうである。大昔、地球から分離して宇宙の彼方へと去ったママンゴ星が、500万年ぶりに地球に大接近する。探偵の伴俊作(ヒゲオヤジ)はこの星から落ちてきた石が、強いエネルギーを出すことを発見する。
少年博士の敷島博士はこのエネルギーを利用し、ロケットをつくる。そして探検隊を組織し、ママンゴ星へと向かった。その星は恐竜たちがのし歩く前世紀(ロストワールド)だった。
とても15歳が考えたストーリーとは思えない。手塚さんは天才である上に早熟だった。
早熟であること表すエピソードがある。大阪府立池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)の低学年だったころ、教師が児童たちに「海に浮かぶ船の絵を描きなさい」と指示した。
手塚さんを除く児童たちは全員が水平線の上に船を描いた。手塚だけが船の上に水平線を描いた。手塚さんはそう見えるからと主張した。確かにそうなのである。
手塚さんが早くして才能を開花した背景には家庭環境もあるようだ。手塚さんの父親はサラリーマンだったが、映画や漫画などが好きで、自宅には映写機があった。それで幼いころからチャップリンやディズニーの映画を観ていた。一方で宝塚歌劇団好きの母親と一緒に観劇していた。
ヒューマニストでもあった。医学生時代は漫画を描きながら小児科医をやるつもりだった。小学生時代の友人に「小児科の医者になる。子供を漫画で治したい」と語っている。子供の心まで救おうとしていた。
だが、この夢はかなわなかった。漫画家として売れすぎた。1952(昭27)年、医師国家試験を通ったのを機に医師の道は断念する。
理想主義者だったことでも知られている。最近、舞台化されるなど再評価されている『W3(ワンダースリー)』(1965年)にも理想が表れている。
地球内の各国が戦争を繰り返すため、銀河パトロール要員の3人がやって来た。そのまま争いが止まらなかったら、地球を反陽子爆弾で消滅させる計画だった。当時、ベトナム戦争が泥沼化していた。
3人の行動を通じ、手塚さんは読む側に地球とは何か、どうすれば争わずに済むのか、個人は未来のために何が出来るのを考えさせた。
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