【べらぼう】染谷将太「喜多川歌麿」が大画家になるのに必要だった「蔦重」と「眼」
独創的な歌麿がなぜ「人まね」なのか
喜多川歌麿といえば「美人大首絵」である。女性のウエストアップ、またはバストアップを描いた絵は、まったく新しい発想だった。それまで大首絵(半身像や胸像)といえば人気役者を描くものと相場が決まっていたが、歌麿は蔦重こと蔦屋重三郎のプロデュースで、美人画に大首絵を導入した。
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しかも、歌麿の美人大首絵は、描かれた女性の性質や状況を見事にとらえ、画中の人がなにを思い、どうしようとしているのか、見る人がさまざまに想像するように促した。たとえば、寛政4年(1792)に蔦重の耕書堂から出された『婦人相学十躰』。「相学」とは、人相を見て人の性質を判断する学問を指すが、そのタイトルからして歌麿は、絵をとおして女性の性質を伝えることに、強い自信をいだいているように感じられる。
『婦人相学十躰』のうちの1点、「浮気之相」を例に挙げれば、描かれている女性は、想い人がいながら複数の男性に目移りする女性と設定されている。湯上りで髪をひとまずまとめ、浴衣の下に胸がはだけたなまめかしい女性は、肩にかけた手拭いで両手を拭いているように見えるが、心ここにあらずで、視線は別のほうを向いている。しかも、表情には憧れにも似た笑みがわずかに見てとれる。視線の先に、だれか気になる男性がいるのだろうか。
女性を魅力的に描くだけでなく、このように女性の内面を引き出し、「人相」にその人の「性質」を浮かび上がらせる絵こそ、歌麿の真骨頂だった。美人大首絵というスタイルが歌麿の独創であるばかりか、人間が描かれているという点で、歌麿の絵はほかの絵師の作品と一線を画していた。
ところが、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第30回(8月10日放送)のサブタイトルは「人まね歌麿」である。同時代にもっとも「人まね」と縁遠い独創性を発揮した画家が、どうして「人まね」と呼ばれるのか。ある時期は「人まね」であったとすれば、どうしてそこから脱して、歌麿だけの世界を打ち出せるようになったのか。
蔦重が弟のように肩入れした
『べらぼう』では、歌麿(染谷将太)は蔦重(横浜流星)のもとに居候しつつ、著名な画家の絵をまねて描いているが、第30回「人まね歌麿」で蔦重のもとを離れ、もともとの師匠である鳥山石燕(片岡鶴太郎)のもとに住みこみ、修行することになるようだ。石燕は狩野派の町絵師で、妖怪画を得意とした。『べらぼう』では、この修行によって歌麿は「人まね歌麿」から一皮むけ、自分らしい絵が描けるようになる、という展開だと思われる。では、史実の歌麿はどうだったのだろう。
浮世絵研究の基礎資料で、『べらぼう』では桐谷健太が演じている大田南畝が、寛政年間(1789~1801)に原本を描いた『浮世絵類考』にはこんな旨が書かれている。「はじめ鳥山石燕に師事して狩野派の絵を学び、その後、男女の暮らしぶりや姿かたちを題材とする絵を描くようになり、絵草紙問屋・蔦屋重三郎のもとに身を寄せた」。
少年歌麿が石燕に師事したことはたしかだが、現在、『べらぼう』で描かれている天明5年(1785)の時点で、ふたたび弟子入りしたというのは脚本家の創作である。ただ、ある時期、蔦重のもとに居候していたこと、蔦重が弟のように肩入れしていたことは、間違いなさそうだ。
蔦重は天明3年(1783)9月に吉原から日本橋通油町に移転した。その直前の7月に出された『燈籠番付 青楼夜のにしき』で、歌麿ははじめて「喜多川」姓を名乗る。喜多川は蔦重の育ての親の姓で、蔦重は本名を喜多川柯理といった。蔦重は歌麿の画才に惚れこむあまり、 兄弟のように遇していたということかもしれない。
さらに蔦重は、この年の8月に吉原の行事である「俄」に取材をした『青楼仁和嘉女芸者部』と『青楼尓和嘉鹿嶋踊 続』を、喜多川歌麿名で出させる。描かれているのは行事における吉原の芸者や女郎たちで、いずれも大首絵と違って全身像で、まだ歌麿らしい画風には乏しい。それでも舞台裏の等身大の芸者や女郎が描かれている点が、俄を描いたほかの絵と一線を画している。だから、その2年後の天明5年の時点で「人まね歌麿」と呼ぶのは、言いすぎという気がする。だが、このころが歌麿にとって、次の飛躍に必要な養分を蓄える期間だったことは、たしかだと思われる。
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