【べらぼう】染谷将太「喜多川歌麿」が大画家になるのに必要だった「蔦重」と「眼」
大成につながった2つの作品
実際、蔦重は天明4年(1784)以降、4年余りにわたって、蔦重に大きな仕事をあたえていない。だが、天明8年(1788)に蔦重のもとから出された作品は、驚くべき完成度を誇っている。
まず『画本虫ゑらみ』である。これは狂歌全盛のこの時代、蔦重が歌麿に描かせた華麗な彩色摺の絵入狂歌本で、狂歌師30人が虫を題に詠み合った狂歌集になっている。歌麿が描いた15図は、彼が小動物を写実する能力に、ただ驚かされる。チョウやトンボ、バッタやカマキリ、ケラやハサミムシなどの昆虫から、カエルやカタツムリ、果てはヘビやトカゲなどの爬虫類まで、植物と一緒にきわめて写実的に、しかも生き生きと描かれている。
師匠の石燕が寄せた跋文によれば、歌麿は幼いころから観察眼が鋭く、コオロギを手のひらに乗せたりして探求していたそうだが、その才がここに開花し、歌麿の名を世に知らしめた。同様に翌年は『潮干のつと』で貝類を、翌々年は『百千鳥』で鳥類を描いたが、蔦重が歌麿の持ち前の才を、時間をかけて磨きに磨かせた、ということではないだろうか。
しかし、小動物を細部までいくら写実的に描けても、それだけで売れっ子画家になるのは難しい。蔦重は同じ時期、歌麿に人間も描かせた。それが、やはり天明8年に出された『歌まくら』である。
そこに描かれたのは、いわゆる春画だった。全12図は1作ごとに設定や構図が変化に富むばかりか、小動物に向けるのと同じ観察眼で、男女の情交が写実的に描かれている。とくに気づくのは、舞台が吉原であっても男性上位ではなく、女性が主体的な感情をいだいているように、生き生きと描かれている点である。
おそらく蔦重は、吉原生まれの強みを生かして、歌麿を吉原に派遣しては、男女の情交を観察させたのだろう。そうでなければ、こうもリアルには描けない。
持ち前の観察眼を蔦重に見込まれた歌麿は、こうして多方面で表現力を磨き、女性の心持をも読みとって描き出す術を習得。冒頭で記したように「美人大首絵」で大成するに至ったものと思われる。
歌麿の画業を支えた反骨精神
ところで、歌麿が描く女性の顔は、表情はともかく顔つきはみな似ている。似顔絵を追求するより、その時代にもっとも好まれた美人の相貌を描くほうが、大衆に受け入れられると判断したからだろう。そのことも、歌麿が大画家になれた一因だったように思う。
たとえば、美人画の代表作のひとつ『当時三美人(寛政三美人)』は、難波屋おきた、高島屋おひさ(以上、茶屋の娘)、富本豊雛(浄瑠璃の名取)という、江戸で美人と名高い一般女性が描かれた。しかし、それぞれ輪郭から、目や眉、鼻や口のかたちまで、そっくりである。
彼女たちは理想化されたアイドル、しかも、いつでも会いに行けるアイドルだった。しかし、注目されるほど歌麿は、当局ににらまれた。まず寛政5年(1793)、幕府は吉原の女郎を除き、個人名を絵のなかに記すことを禁じた。そこで歌麿が実践したのは、名前を「判じ絵」にして示すという洒落た趣向だった。たとえば「難波屋おきた」なら、菜っ葉を2杷描いて「なにわ」、弓矢の矢で「や」、海の沖で「おき」、田んぼで「た」、と表現した。
しかし、寛政8年には(1796)にはそれも禁じられ、さらに同12年(1800)に至っては、「なにかと目立つ」のがいけないと、美人大首絵自体が禁じられてしまう。
歌麿は蔦重が東洲斎写楽に傾注する寛政6年(1794)ごろから、蔦重と疎遠になり、その蔦重が寛政9年(1797)に亡くなってのち、ほかの版元から出した作品には、以前ほどの輝きがない。ある意味当然で、蔦重の存在がそれほど大きかったということだが、当局からこうもねらい撃ちされては、輝く余地も失われただろう。
だが、歌麿には気骨があった。美人大首絵が禁止されれば、大首絵で描く女性を、子供をだく母親にするなど禁令に触れない工夫を重ね、錦絵を描き続けた。この時代、錦絵で名を成した画家は、画料が高い肉筆画の仕事に移るケースが多かったが、歌麿は肉筆画に力を入れず、錦絵にこだわり続けた。描く自由の範囲がどんどん狭められても、当局を刺激しながら錦絵を出版し、大衆に届ける道を優先した。
その道が最終的に成功したとは思えないにせよ、これだけの気骨があったからこそ、歌麿は大成できた。そうはいえると思う。
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