ハワイで谷村新司から「3人で一緒にやらないか?」 ドラマー・矢沢透が振り返る「アリス」誕生の瞬間

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アート・ブレイキーとの出会い

 矢沢がなぜ、ドラムをやるようになったのかを「人生を変えた一曲」というテーマで伺った。

 4歳上の兄が高校のブラスバンド部で小太鼓を叩いていた。最初は兄に言われ、いやいや叩き始めたが、兄より小太鼓が好きになっていった。そして、兄が買ってきたジャズのレコードを聴いているうちに、アート・ブレイキーに出会い、そのスイング感にシビレる。ついには「プロのドラマーになる」と決意する。

 それからは寝ても覚めてもドラム漬けの日々。そんな矢沢に音楽の神様はチャンスを与える。友人が専門誌「スイングジャーナル」でバンドボーイ募集の広告を見つけ、一緒に面接に出かけた。

 すぐにはバンドに参加できないと言う友人に対して、矢沢は「僕は大丈夫」とその場でOKする。しかも、先方が希望していたのがドラマーだった。矢沢は「その瞬間に僕の人生は流れ始めた」と語った。

 高校には退学届けを提出。それからは本土返還前の沖縄の米軍キャンプを回る日々。1カ所で5時間、1日に3カ所回り、15時間ドラムを叩いた日もあったそうだ。あの何気に叩いているようで、力強いドラムの音はこうして培われた。

 もっとも、この話だけなら何人もいるプロドラマーの一人に過ぎなかったかもしれない。決定的なのはやはり谷村との出会いだ。このことは「その瞬間」というテーマでインタビューしている。

 その頃の矢沢は、作曲家でギタリストの惣領泰則が率いるバンドBROWN RICE(ブラウン・ライス)でドラムを叩いていた。その頃、日本のグループが参加するアメリカ横断ツアーの話が持ち上がり、BROWN RICEもオーディションを通った。いくつかのバンドによる一行は羽田空港からアメリカに飛びたったが、その中にフォークグループ、ロック・キャンディーズをやっている谷村がいた。

 しかし、ツアーは途中で主催者がトンズラして消滅。

 やることがなくなったミュージシャンたちは時間を持て余し、矢沢は谷村と朝から晩まで音楽の話をしたという。その合間、遠く異国の地にいたこともあり、矢沢は同棲していた彼女に国際電話をかけたのだが、電話代に11万円も使ってしまった。財布はスッカラカン。滞在中は1日3食、谷村にハンバーガーを食べさせてもらったという。

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