北極点をめざした冒険家には「美し過ぎる女優時代」があった―― 石井ふく子さんが振り返る和泉雅子さんの“素顔”
「とことんやらずにはいられない一生懸命な人」
プロデューサーの石井ふく子さんを師と仰いでいた。産休と思って長い休暇をいただけないものか、と北極点行きを真っ先に相談した相手も石井さんだった。
石井さんは述懐する。
「とことんやらずにはいられない一生懸命な人。行動的で、損得で物事を考えない。そのまま冒険家になるの、と聞くと、女優を続けますと言いました。役者として乗り越えたい思いがあるんだな、と感じました」
元気に戻ってね、と石井さんは和泉さんに、先の舞台出演を依頼し送り出す。
「到達を果たせず帰国した時より成功後の方が心配でした。ほっとして立ち止まってしまうのでは、と思ったのです。でも、大丈夫でした。私の家によく遊びに来ましたが、サバサバして気持ちがいい人。北極に行き、さらに周囲に感謝するようになりました」(石井さん)
北海道士別市との縁
北極点を目指す際にヤマハがスノーモービルを提供。その訓練コースがある北海道士別市との縁が生涯続いた。97年には別荘を建て、毎年約4カ月を過ごした。
士別市立博物館の元館長、水田一彦さんは言う。
「冒険で実際に使った品や極地で集めた民具を寄贈してくださった。北極の体験を話してくださる時、子供たちを寝袋に入れてあげたり、楽しめる工夫をいつも考えていた。『寒いのへっちゃら隊』と名付けて、15人ほどの子供と雪の中で一緒に遊ぶ活動にも熱心でした。皆からマコさんと呼ばれて親戚のような付き合いでした」
今年5月に倒れ、容体が急変。7月9日、原発不明がんのため77歳で逝去。
生涯独身。10年ほど前に生前葬を営んだ。北極で命の大切さを痛感、最期まで心を込めて丁寧に生きたい、との思いの表れだろう。









