清原和博は「天理」、桑田真澄は「上宮」に進学した可能性も…野球人生を変えた運命の“進路変更”

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 元ロッテ、阪神の西岡剛氏が、夏の地方大会開幕後に放映された「ジャンクスポーツ」(フジテレビ系)で、第1志望のPL学園に断られて大阪桐蔭に進学した話を披露し、ネット上で「結果彼にとって最高の道が開かれたのかもしれない」などの声が出た。プロで成功を収めた選手が「本当はあの高校に行きたかった」というエピソードは枚挙に暇がないが、西岡氏同様、結果的に大正解だった例が多い。有名選手たちの野球人生を変えた運命の進路先変更を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

結果オーライ

 まず“昭和の怪物”江川卓(元巨人)も、作新学院に入学するまでには紆余曲折があった。

 小山中時代に県大会で優勝投手になった江川には、栃木県内はもとより、県外の野球名門校からも勧誘の手が伸びた。中でも地元・小山と東京の日大三の両校が熱心に誘ってきた。

 だが、中3の秋に神宮で早慶戦を観戦して以来、どちらかに進学したいと熱望していた江川にとって、当時早慶への進学実績が少なかった両校は、選択肢になりづらかった。

 自著「たかが江川されど江川」(新潮文庫)によれば、その後、春夏通算7度の甲子園出場歴がある埼玉の進学校・大宮が新たな進路先に浮上した。

 ところが、大宮在住の叔父の養子に入るところまで話が進んだにもかかわらず、すでに受験手続きが間に合わず、断念せざるを得なくなった。

 そこで、小山への進学を再検討しはじめた矢先、作新学院関係者から入学を勧められた。同校は1962年に高校野球史上初の甲子園春夏連覇を達成し、特別進学コースもある。江川は「勉強のほうも自分がその気になって励めば、早慶も夢ではない」と考えて、作新に入学した。

 作新時代の江川は、3年時の1973年春夏に甲子園に出場し、春は4強入り。一方、前出の大宮は、1県1代表の記念大会となった73年夏の県大会4強が最高で(71、72年はいずれも西関東大会に進めず)、仮に江川がいたとしても、作新以上の成績を残せたかどうかは微妙だ。早慶進学の夢は叶えられなかったものの、江川が作新に入学したのは、野球選手としては結果オーライだったと言えそうだ。

牛島が来るから、浪商に上がってくれ

 1979年の甲子園で春準優勝、夏4強の好成績を残した浪商の牛島和彦(元中日、ロッテ)、香川伸行(元南海)のバッテリーも、当初は二人とも天理への進学を考えていたという。

 四条中エース時代に大阪大会で完全試合を達成して注目された牛島は、2歳まで奈良で育った縁から天理のセレクションを受け、合格した。

 だが、天理のライバル校で、いとこが在籍する郡山の監督から「奈良に来るな」と言われてしまい、自身も子供の頃からお世話になっていたので、仕方なく義理立てすることになった。

 そして、新たな進路先を探していた矢先に浪商から誘われ、同校OBで当時巨人の主力だった高田繁の勧めもあって入学が決まった。

 一方、浪商の付属中・大体大付の捕手・香川は、所属していた少年野球チームのご縁から天理の練習を見学。大阪に比べて校数が少ない奈良のほうが甲子園に出やすいと考え、初めは天理に行くつもりだった。

 浪商としては当然、付属中の逸材をみすみす他校に取られたくない。夏の甲子園は尾崎行雄(元東映)をエースに優勝した1961年以来、遠ざかっており、同じ61年生まれの世代で名門復活を目指し、3年計画に乗り出すところでもあった。牛島の入学も決まり、学校側から「牛島が来るから、浪商に上がってくれ」と説得された結果、高校野球史に残る名バッテリーが誕生した。

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