「女優が自然を甘く見るな」批判を吹き飛ばし北極点へ 和泉雅子さんの壮絶な冒険を振り返る
女優の和泉雅子(いずみ・まさこ)さんが9日午後1時3分、原発不明がんのため都内の自宅で死去した。77歳だった。今年5月に自宅で倒れて都内の病院に入院。その後、退院して自宅療養をしていたが、体調が急変し帰らぬ人となった。所属元によると、和泉本人の遺志で生前葬を営んでいたそうで「葬儀は執り行わない」という。
和泉さんといえば、女優としてだけではなく、日本人女性として初めて北極点に到達した冒険家として世界的に有名だった。追悼の意味も込め、和泉さんの生涯の中でも、もっとも刺激的だったであろう北極点踏破の苦闘を振り返ってみたい。
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過酷な道のり、20日も予定をオーバー
和泉さんが、「北極点踏破」したのは89年5月10日午後2時20分(現地時間同日午前零時20分)のことだった。筆者が芸能記者になってから6年目の出来事だったが、この和泉さんの偉業に興味を引かれ取材した。
「ついに地球のてっぺんに立った」
86年に米国人の女性が一番乗りを果たしており、和泉さんは女性として2人目だった。しかし、当時41歳の和泉さんの極点踏破は、日本中に勇気と希望を与え大きな話題となった。
“和泉雅子遠征隊”のメンバーは、和泉さんのほか、テレビ朝日のカメラマンだった大谷映芳さん(当時41歳)、日本大学山岳部OBの山主丈彦さん(27歳)、そしてイヌイット(カナダ・エスキモー)のオココさん(47歳)と、その息子のジョーさん(22歳)の5人である。
極点を目指してスタートしたのは89年3月10日。 スノーモービル2台と大型ソリ2台でカナダのワードハント島を出発した。極点までの距離は800キロだった。当初は4月20日前後に踏破する予定だった。しかし、それを20日も遅れてしまった。
「消波ブロック状の氷の塊がゴロゴロしている『乱氷群』に遮られて立ち往生するアクシデントに遭遇したり、気温の上昇で氷原が割れ、元の地点に押し流されることもあったりで、予定が大幅に遅れたといいます」(当時取材していた記者)。
その過酷さは、当時の記録を見れば一目瞭然だ。89年前半の時点で“和泉遠征隊”以外に7隊が犬ゾリやスキー、徒歩などで北極点踏破にチャレンジしていた。しかし、そのうち6隊が脱落している。“和泉遠征隊”は、国際徒歩探検隊と競う形になったが、結果、和泉さんたちが、このシーズンの一番乗りを果たした。
北極点で歌った「都はるみ」
北極点に立った和泉さんは、途切れ途切れの無線交信で、踏破の喜びをカナダ最北端の村・レゾリュートに設置したベースキャンプに伝えてきた。その喜びの一声は、
「今日ぐらいサービスしてくれてもいいんじゃないかと思ったのに、乱氷帯とリード(開水面)で最後まで悩まされました。やっと着いたなと思って、最初はピンとこなかったけれども、ポーッとして腰が抜けたようになりました。ここまで本当に良く頑張ったなあと思いました。本当に長い苦しい北極点でした」
後日談だが、和泉さんは、この年の北極が例年以上に厳しいことを事前情報でキャッチしていたようだ。それだけに、極点踏破の可能性を「五分五分」と見ていたという。なるほど、感無量の喜びだったに違いない。
和泉さんは極点で、思わず都はるみのヒット曲を大声で歌った。
いつも群飛ぶ かもめさえ
とうに忘れた 恋なのに
今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が…
「何かをしようと思ったんですが、江戸っ子ですので、最初は手締めをして、その後に都はるみさんの『涙の連絡船』を歌いました」
和泉さんは、憧れの北極点での様子をこう語った。 当時、都はるみが所属していたサンミュージックの関係者がこう言っていたのを覚えている。
「和泉さんとはるみさんは親しかったですからね。和泉さんは、北極点で『涙の連絡船』をカセットに録音して、帰国後、はるみさんへの土産にしたと言っていました。その後、はるみさんの口から、そのカセットの話が出たかどうかは記憶にありませんが、カセットは和泉からはるみに渡されているんじゃないでしょうか」
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