ずっと歌手をやりたかった「フツオ」 “たいして歌も上手くなく…”諦めかけた長江健次の背中を押した言葉

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 1981年に放送が始まった「欽ドン!良い子悪い子普通の子」(フジテレビ系)から誕生し、デビュー曲「ハイスクールララバイ」がミリオンヒットとなった「イモ欽トリオ」。現在3人は、トリオでの活動を再開させ、全国のファンを喜ばせている。その仕掛け人は、「フツオ」(普通の子)を演じた長江健次(61)だ。バラエティーでの姿とは裏腹に、音楽にかける情熱は還暦を過ぎた今なお熱い。

(全2回の第1回)

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 地元・大阪では、中学生の頃から素人参加番組に何度も出演する人気者だった。あるテレビ番組のオーディションに参加した際に、審査員席の明石家さんまに、今後の進路を相談したことがあったという。

「桂三枝(現・文枝)さんの弟子になろうと思う、と相談したんですよ。そしたら『やめとけ、まだ中学生やのに。高校だけは行っといたらどうや?』と諭されました。ならば進学してバイトでもしながら芸能界を目指そうかなと思っていたら、番組のアシスタントの人が、海原千里・万里のマネージャーと僕をつないでくれたんです。当時、『欽ちゃんのドンといってみよう!』がリニューアルするので、15~16歳の子を探していて『それなら、ちょけた(お調子者の)男の子がいるで』ということで」

「欽ドン!」の大阪オーディションには合格したものの、つづく東京のオーディションには落ちてしまった。ワルオ役の募集だった。だが、当初は山口良一がフツオ、西山浩司がヨシオに決まっていたものの、配役がうまくはまっておらず、オーディションが終わってスタジオに残っていた長江が萩本欽一の目に留まった。そしてフツオとして抜擢される。

 その後、「ハイスクールララバイ」が大ヒットするわけだが、実はこの頃から長江の歌手への思いは強かった。

「歌手になりたくて、『スター誕生!』のオーディションにも応募してたんです。ただ応募からオーディションまでめちゃめちゃタイムラグがあって、『ハイスクールララバイ』が『ザ・ベストテン』(TBS系)で8週連続1位を取っていた頃に、ようやく『スタ誕』から案内が来ました(笑)。それくらい、歌は好きでしたね」

「欽ドン」卒業 大阪でバンドを組みライブハウスツアーも

 大学受験を機に1982年秋に「欽ドン!」を降板。その後は大阪で芸能活動を続けた。テレビの「突然ガバチョ!」(毎日放送)やラジオの「MBSヤングタウン」(同、ヤンタン)にレギュラー出演する一方で、バックバンドを組んでライブハウスツアーも始めた。

「当時は生意気やったし、売れている自負もあった。イモ欽時代には、お客さんにキャーキャー言われながら厚生年金会館を満員にしたしね。でも自分のバックバンドとは、(『ハイスクールララバイ』など)自分の歌を歌うのは嫌やったんです。5歳上の姉貴の影響が強かったので、子どもの頃はビートルズなんかも聴いていて、そのせいか山下達郎さん、角松敏生さんみたいな音楽をやりたいと思ってたんです」

 1983年のアルバム「BOY’S LIFE」は伊藤銀次がプロデュース。秋元康が作詞を手がけた楽曲も収録されている。1984年の2ndアルバム「屋根の上の招待状」には、チャゲが作曲したシングル「涙・Boy」や、長渕剛による楽曲も。さらに1992年にリリースした6枚目のシングル「Nineteen 19」では、角松敏生が作詞・作曲・編曲を手がけた。そうそうたる顔ぶれである。

「そうこうしているうちに人気も落ちて、音楽活動もやれなくなって。それに大して歌もうまくなかったかもな……」

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