ともに66歳で早大と慶大出身、フジ「社長候補」だった同期入社のライバル、分かれた明暗
同期で年齢も同じ2人
フジテレビの人権侵害問題で責任を問われている同社元専務・大多亮氏(66)とスタートエンターテイメントの新代表取締役CEO・鈴木克明氏(66)はフジに1981年に入社した同期。鈴木氏も専務を経験し、ともに社長候補だった。なぜ、2人は誰も予想しなかった現在を迎えているのか。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】
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大多氏と鈴木氏は年齢も同じ。初配属先も共に報道局。出身大は大多氏が早大で鈴木氏が慶大。私大の両雄である。ずっとライバルだったという。
「仲が良いように見えなかった」(フジ関係者A)
報道局の配置は鈴木氏が花形の社会部記者だったのに対し、大多氏はカメラマン。肉体的にきつい仕事だった。
大多氏は次に警視庁記者クラブに配置される。事件現場と刑事宅を駆けずり回る仕事で、やはり肉体的にハードだった。
「若手だったころの大多さんは鼻っ柱が強かったから、当時の幹部があえて厳しい仕事をやらせた」(フジ関係者A)
結局、大多氏と当時の報道局幹部は最後までソリが合わなかったようで、次は広報部への異動を命じられた。ドラマやバラエティーのPRを担当した。
ここで大多氏の才能が認められる。センスの良さを買われ、1986年にドラマを制作する第1制作部(当時)へ引っ張られた。1988年には陣内孝則(66)主演の「君の瞳をタイホする!」をサブプロデューサーとして大ヒットさせた。
その後はプロデュースしたドラマが次々と大当たり。大多作品はトレンディドラマと呼ばれるようになる。
大多氏は当時、放送担当の新聞記者とテレビ誌記者の間で人気抜群だった。新ドラマの放送開始の約1カ月半前に行われる制作説明会での言動が気さくで親しみやすかったからだ。
「みんなー、分からないことがあったら何でも聞いてくれよ」
明るくノリの良い体育会系だった。当時はフジ黄金期ということもあって、尊大なプロデューサーもいたが、大多氏は若い記者の兄貴的な存在だった。
一方、鈴木氏は裁判所担当記者などを経て、選挙特番などを制作するようになる。取材力も制作力も抜きん出ていた。1992年には水面下で制作したお妃特番のプロデューサーを務めた。
宮内庁が情報を抑えたため、多くのマスコミがなかなかお妃候補を1人に絞れない中、鈴木氏たちはかなり早くからお妃は雅子さましかいないと見て特番を制作。1993年1月6日にお妃が雅子さまに内定と発表されると、直後から特番を放送。視聴率争いで勝利する。
鈴木氏は1994年には早朝の情報番組の強化を命じられた。そこで鈴木氏が考えたのは「めざましテレビ」(月~金曜午前5時25分)である。当時は日本テレビの「ズームイン!!SUPER」が圧倒的に強く、フジは何をやってもまるで歯が立たなかった。
逆転のために鈴木氏が考えたのは芸能情報を充実させること。今では当たり前だが、当時は考えられないことだった。朝のメインターゲットの視聴者は男女の社会人だったからである。
「めざましテレビ」は芸能やめざましジャンケンなどを盛り込むことにより、学生など若い視聴者も獲得する。2004年には早朝の情報番組で視聴率トップになる。
一方、大多氏のトレンディドラマを快く思わない大物ドラマ関係者もいた。「北の国から」(1981年)など重厚な作品を書いてきた脚本家の倉本聰氏(90)は「君だな、ドラマをダメにしてしまった男は」と言い放ったとされている。
また、7月6日に放送された人権侵害問題に関する検証番組では、大多氏が過去に「女性アナは上質なキャバ嬢」と発言したことが問題視されたが、不用意な発言をしてしまう癖があるようだ。
トレンディドラマについては「埼玉のアパートに住み、華やかな暮らしに憧れているOLたちに向けてつくった」といった発言をしたことがある。悪気はなかったとしてもテレビ側の驕りと受け取られかねない言葉だった。
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