日本列島の大動脈を停止させた「日本坂トンネル火災事故」 九死に一生の運転手たちが聞いた「ボーンという爆発音」【週刊新潮が見た昭和】

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日本列島の大動脈が停止

〈午前10時半過ぎに八日市インター入り口まで来たが、その直前に彦根インターと関ヶ原インターの間で事故発生。彦根インターの手前5kmから完全な渋滞。車は5分に一度数十m動くという程度。彦根インターに着いたのが午後1時過ぎ。どこかで昼食をと思うが、近くのサービスエリアは入り口まで車があふれて入れず、養老のサービスエリアなどは人の波でうずまり、弁当は売り切れ〉。

「週刊新潮」(1979年7月26日号)が伝えた昭和54(1979)年7月の様子だが、行楽シーズンの混雑ぶりを伝えるものではない。この大渋滞のきっかけは、同年7月11日に東名高速の最長トンネルで発生した「日本坂トンネル火災事故」。以上はその翌日に滋賀から東京を目指した3人家族の顛末である。

 この家族はその後も驚きの大渋滞に巻き込まれた。午後3時半過ぎに豊川インターを出たが、国道1号線は〈渋滞というよりは、むしろ道路そのものが駐車場と化したような有様〉。静岡・磐田市にたどりついたのは夜の10時過ぎだったという。しかもこの間も、日本坂トンネルは完全な鎮火に至っていなかった。

 日本列島の大動脈で、静岡市駿河区と焼津市にまたがる約2kmのトンネルが猛火に包まれた昭和の大事故。死者7名、負傷2名、焼失車両173台と被害は甚大であった。現場に居合わせた運転手たちが遭遇した過酷な状況とは――。

(記事中の引用箇所は「週刊新潮」(1979年7月26日号)「東京は遠かった 『東名事故』大渋滞 難行苦行まんだら」より)

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天井につくぐらいの高さの炎が上がった

 最初のきっかけは、7月11日午後6時37分ごろに下り線で発生した玉突き事故だった。西坑口から約420メートルの地点で、停車中の大型トラックに別のトラックが追突。そこに乗用車2台と大型トラック2台が次々と追突し、乗用車2台の前後を大型トラック2台ずつが挟む形で停車した。

「事故現場から6、700メートル離れたところに止まった」と当時の取材に応えたのは、神戸のトラック運転手。

〈「もちろん事故なんてわからんから、リクライニング倒して、横になって、足を上げマンガの本を読みかけたな。5分ほどしよったら、外が騒がしいから、何ごとかと思うて、キーを切って、現場近くまで行きました。事故車の5台ぐらい手前からながめると、ポンと音がして火の手が上ってて、そのまわりに10人ぐらいおったな。誰かが消火栓のホースを持って走って、別の誰かが蛇口をあけたんやが“水が出ん、出ん”とドナってましたわ。スプリンクラーだか何だか名は知らんが、天井からだって水は一滴も落ちて来よらんかった」〉

 火災の原因は、挟まれた乗用車から漏れたガソリンだった。乗用車の下部で出火し、次にもう1台の乗用車に引火して車ごと炎上。さらにトラックに延焼した。事故現場から「10番目以内にいた」という大阪のトラック運転手はこう語った。

〈「ボーンという爆発音がして、降りて行こうとしたら、天井につくぐらいの高さの炎が上がりました。車を置いて、走って助けに行ったんですが、ガスいうか、黒いすごい煙が来て、消火する時間はありませんでしたよ。スプリンクラー? 全然。これっぽっちも濡れてない」〉

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