「国鉄初代総裁」の轢死体を発見…いまも検証が続く「下山事件」、大学同期の元警視総監が語った“ただならぬ挙動”とは【週刊新潮が見た昭和】

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現在も真相解明が続く未解決意見

 GHQ占領下の昭和24(1949)年に起こった「下山事件」は、あまりにも有名な“戦後日本の未解決事件”である。国鉄(現在のJR)初代総裁の下山貞則氏が失踪、翌日に轢死体で発見されるという衝撃的な展開は、自殺か他殺かをめぐっての大論争を巻き起こした。

 初代総裁に課せられた任務は膨大かつ複雑なもので、就任後の下山氏は即、かねて紛糾していた約10万人の人員削減に対応していた。GHQの民間運輸局(CTS)の意向に従ったものだが、組合との話し合いで矢面に立ったのは下山氏である。立ち寄った東京・日本橋の百貨店で失踪したのは7月5日、約3万700人に解雇通告が行われた翌日だった。

 6日未明に下山氏の轢死体が発見されると、マスコミは自殺派と他殺派に分かれての報道合戦を繰り広げた。だが、真相の解明には至らず、いまも現役の“謎”である。検証を試みる制作物も数多く、2024年3月にはNHKスペシャル「未解決事件」のテーマとなり、同年10月には新証言を発掘した『下山事件 封印された記憶』(中央公論新社)が刊行された。

 謎の解明は識者に譲り、ここでは〈「週刊新潮」が報じた昭和〉シリーズとして、昭和46(1971)年に掲載した田中栄一氏(1980年2月1日没)の記事をご紹介しよう。田中氏は捜査の陣頭指揮を執った事件当時の警察総監で、下山総裁とは東大の同期だった。そんな田中氏が事件の前々日に見た下山氏の「ただならぬ挙動」とは――。

(「週刊新潮」1971年1月9日号「下山事件 田中・元総監の『死ぬまでいえない』内容」を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のもの、「※」がついた補足・注釈のみ今回新たに追加したものです)

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私のイキを引き取る時までいえない

 下山事件――昭和24年7月5日、当時の国鉄総裁下山定則氏(49)が、日本橋三越本店前で車を降りた後消息を絶ち、翌6日、常磐線綾瀬駅近くの線路上でバラバラの轢死体となって発見された事件――は、その轢死体をめぐって自殺か他殺か、警視庁内部も世論も2つに分かれて沸騰した。(注:他殺説には「左翼テロ」と「米軍謀略」の2説がある)

 が、事件当時の警視総監として捜査の総指揮に当たり、したがってまたあらゆる“情報”も知り得た立場にあった田中栄一氏(現自民党代議士※)は、なぜかその“判断”を求められるたびごとに、こういって言葉を切ってしまうのであった。(※取材当時)

「ともかく、下山事件の真相については、私のイキを引き取る時までいえない……」

 田中栄一氏がこのように言葉を切ってしまった背景を考えるには、当時の下山事件の捜査に当たった警視庁とGHQ――ことにウィロビー少将(※)の率いたGII(参謀第二部。諜報・治安担当)、もしくは、その”実戦部隊”との関係を見る必要がありそうである。(※チャールズ・ウィロビー)

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