香港にはかつて「七一遊行」があった デモ行進が“重要行事”として定着した22年前、50万人超の人々が共有した怒りと熱気
返還6年目に直面した大問題
彼らはなぜ集まったのか。ビクトリア・パークに入ると、何枚ものプラカードやバナーが目に入る。「23条に反対して市民に政治を取り戻せ」「言論の自由を守れ」「董建華は辞任せよ」。他の言い回しや主張が混在しているものの、共通する内容はこのあたりだ。
23条とは、返還後香港の最高法規「香港特別行政区基本法」(基本法)の23条を指す。香港政府に対し国家安全に関する法律の制定(立法化)を義務付ける内容だが、言論や報道、集会の自由等と直結する法律となるため、準備段階から市民の猛反発を受けていた。つまり「23条の立法化」は、2020年7月1日施行の「香港国家安全維持法」(国安法)よりも先の大問題だったわけである。
しかも当時の香港は、返還後のアジア通貨危機やSARS等による混乱と不況が尾を引き、香港政府と2期目に入った香港長官の董建華氏、そして選挙制度への不満が高まる一方。財政長官が増税前に車を駆け込み購入した一件など政治家の言動も火に油となり、市民は怒り心頭に発していた。
こうした背景から、2003年の七一遊行は“町に出て声を上げる絶好の機会”となる。民主派プラットフォーム団体の民間人権陣線(民陣)が新たな主催者となり、「蘋果日報」(アップルデイリー)などの民主派メディアは盛んに参加を呼びかけた。当時はまだ、街角のニューススタンドに分厚い新聞各紙がずらりと並ぶ時代。それぞれの主張を訴える派手な報道合戦も現役だった。
行進に居合わせた人も参加者に
炎天下のビクトリア・パークに続々と人が集まる。銅鑼湾駅と東隣の天后(ティンハウ)駅は満杯となり、ついには列車の通過が決まった。それでも参加者は黙々と歩いて公園を目指す。園内の一部では返還6周年の祝賀イベントも行われていたが、七一遊行の待機場所とは比較にならないほど人が少ない。
午後3時、参加者は西へ歩き始めた。経路は銅鑼湾を出て湾仔(ワンチャイ)と金鐘(アドミラルティ)を経由し、中環(セントラル)の中区政府合署(現在の律政中心、途中で別の場所に変更)までの約4キロ。その大半は西・東行きそれぞれ3車線の広い道路で、トラム(路面電車)と路線バスも走っている。
当初は西行きだけが行進に使われ、東行きのトラムや車からは時折声援が飛んでいた。だが、銅鑼湾の人混みで東行きの通行が滞り始めると、下車して行進に加わる乗客が目立つようになる。
「香港の自由を殺すな!」「傲慢で無能な政府に香港の人々は苦しんでいる!」
そのまま合流して拳を振り上げる人、逆行してビクトリア・パークへ向かう人。バスの乗客も同じだ。そんな熱気に影響されたのか、何の準備もしていない、ただ行き合わせたような乗客まで一部が行進との合流を選び始めた。銅鑼湾方面から来る人数も増え続け、ついには東行き車線も埋め尽くす人数に膨れ上がった。
[2/3ページ]



