歴史に学べ?餓死者が続出、民の怒り大爆発で打ちこわし…「べらぼう」時代のコメ高騰

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それでも商人はコメを放出しない

 しかし、結果として、幕府の対応策はあまり効果を発揮しなかった。なぜなら、コメを買い占めた商人たちは、高値で売る機会を逃すまいとして、放出を渋るケースが多かったからである。もっとも庶民は黙っていない。天明4年(1784)には、現在の東京都東村山市に農民たちが集結し、コメを売り惜しむ商人たちへの打ちこわしを断行した。

 それでも打ちこわしは、しばらくは東日本にとどまっていたが、天明6年(1786)になると状況が変わった。この年、風水害が全国に広がって、コメの収穫量が平年の3分の1にまで落ち込んだのである。

 この状況では、さすがに商人たちもコメを放出するか、というと逆だった。幕府はふたたび米穀売買勝手令などで、コメの流通に風穴を開けようとしたが、コメを買い占めて利益を得ようとする連中が次から次へと現れた。

 天明7年(1787)5月、大坂でコメを買い占めていると思われる商人の店舗が次々と破壊され、その動きが大坂中に、続いて関西全体に広がり、わずかの間に東北から九州まで全国に波及。この月だけで全国30以上の都市で打ちこわしが発生し、ついには幕府のお膝元である江戸へも広がっていった。

 このころ米価は2年前の2倍から3倍に高騰し(現在と同じだ!)、困窮して隅田川に身投げする人が急増したと伝わる。むろん餓死者も多かった。5月20日、赤坂の米屋などが襲われたのを機に、打ちこわしは江戸中に広がり、500を超える商家が襲われたという。その際、人々は「コメを買い占め売り惜しんだ者は人々の苦しみを思い知れ」といったことを大声で叫んでいたと伝わる。

 令和の米騒動の原因を、流通システムだけに求めることはできないが、長年にわたってそのシステムが非効率的なまま温存され、農家も消費者も利益を得にくい状況が生まれていることはまちがいない。しかも、流通システムが問題でコメが高騰するのは、江戸時代もいまも変わらない。

 天明の米騒動と令和の米騒動に多くの共通点が見られるのは、情けないことに、私たちが学習していないことの証左だが、だったらいまこそ歴史に学んで、流通システムを改革すべきなのではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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