歴史に学べ?餓死者が続出、民の怒り大爆発で打ちこわし…「べらぼう」時代のコメ高騰
江戸幕府も行っていた備蓄米の放出
その結果、コメの収穫量が減ったのはもちろんだが、流通にも影響が生じた。火山灰が降り積もって各街道の通行が困難になり、コメを運べなくなったのである。農村では飢餓が深刻になり、都市部でも米価は高騰を続けた。
こうして書くと、米価の高騰もやむを得ないように思えるだろうが、実際には、コメは必要以上に高騰した。コメを買い占め、高値になったところで売り払おうとする中間の卸売業者が暗躍したからである。
だが、庶民はそれを見抜いていて、こうした業者に力ずくで抵抗した。最初に立ち上がったのは、浅間山に近い上野国(群馬県)西部の農民で、天明3年(1783)9月、商人たちが買い占めているコメを市場に放出することを求め、彼らの店や家を破壊したり焼き払ったりした。これがいわゆる「打ちこわし」で、翌月には信濃国(長野県)の農民も加わって一大勢力になった。幕府はこれを武力で鎮圧したものの、こうした打ちこわしはその後も、飢饉の影響が深刻な東北から関東にかけて広く発生した。
衝撃を受けた幕府は対応策に追われることになった。まず、江戸での米価引き下げを命じた。続いて同年12月には、「備蓄米」の放出がはじまった。各大名は自身の居城に「城詰米」と呼ばれる米を備蓄していたが、幕府は主として飢饉の被害が小さい近畿や中国、四国や九州の譜代大名に、城詰米を江戸に廻送するように命じたのである。
翌天明4年(1784)には、江戸町奉行所に市中の米問屋の米蔵を見分させた。しかも執拗に見分させ、奉行所からの圧力によってコメが市中に出るように図った。時また、時限的な措置としてだが、米穀売買勝手令も発布された。コメの流通と販売には、原則としてかぎられた業者しか関われなかったが、一時的に問屋をとおさず、だれもがコメを売買できるようにしたのだ。
[3/4ページ]

