ジャニー氏から「3カ月でクビになると思う」と言われ… 伝説の名曲を生んだ鎌田俊哉氏が明かす「仮面舞踏会」制作のウラ側

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【全2回(前編/後編)の前編】

 誰もが知るヒット曲を多数手がけながら、知る人ぞ知る存在であり続ける人がいる。音楽プロデューサーの鎌田俊哉氏。45年前にバンドでデビューし、裏方仕事は40年超に及ぶ。ジャニーズの歌に名曲を増やした立役者が語る、アクの強い秘話の数々。【華川富士也/ライター】

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 鎌田氏の名前を知らずとも、氏がこの40年間にプロデュースしてきたヒット曲のタイトルを聞けば、誰もが分かるに違いない。

 少年隊の「仮面舞踏会」「デカメロン伝説」「君だけに」、SMAPの「$10」「夜空ノムコウ」、嵐のデビュー曲「A・RA・SHI」に、修二と彰「青春アミーゴ」、KAT-TUNのデビュー曲たる「Real Face」。

 趣変わってKiroroの「長い間」「未来へ」「Best Friend」。

 そう。鎌田氏は昭和から平成、令和にかけて裏方として老若男女に知れ渡る楽曲を数多く送り出してきた。あのジャニーズ事務所が四半世紀も仕事を依頼し続けていた、唯一の外部プロデューサーでもある。

 自らが表に出て一時代を作った小室哲哉とは逆に、裏方に徹してヒット曲を生み出し続けた、もう一人の“TK”だ。

矢沢永吉が語った「東京のバンドはダメ」な理由

 1980年、20歳だった鎌田氏は「パーティ」というバンドでデビューした。当時、矢沢永吉にかけられた言葉が忘れられない。

「僕らのバンドは、矢沢永吉さんや南佳孝さんを手がけたソニーの高久光雄さんと、渡辺音楽出版でアグネス・チャンや沢田研二さんを手がけた木崎賢治さん、お二人のプロデュースでデビューしました。デビューが決まり、矢沢さんが青山だったか六本木だったかの店にいらっしゃるというので、高久さんのご紹介でごあいさつしたんです。矢沢さんに出身地を聞かれて、東京だと答えたのですが」

 矢沢はピシャリと、こう言い放ったという。

「東京のバンドは、ダメだな」

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