洗脳が解かれ、ヒロインが口にした衝撃の言葉 「あんぱん」戦後、地獄の苦しみが始まった
帰らなかった千尋
やなせさんと暢さんは高知新聞社に入社時、ともに27歳だった。ただし入社は暢さんのほうが3カ月早く、先輩だった。配属は2人とも文化記事が中心の雑誌『月刊高知』。やなせさんはすぐに暢さんのことが好きになった。
「テキパキとした行動と、快活な愛らしさに、ぼくは魅了されてしまった」(やなせさんの著書『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫)
アンパンマンに辿りつくまで先は長い。やなせさんと暢さんが逆転しない正義の答えが「献身と愛」という結論を下し、アンパンマンを発表するのは1969(昭44)年である。
当初のアンパンマンは顔がアンパンに似たおじさんが、飢えた子供たちにアンパンを配る物語だった。月刊誌『PHP』(PHP研究所)に掲載された。
そのアンパンマン第1号のアニメーションは「あんぱん」の第1回の冒頭に登場している。現行形の『それいけ!アンパンマン』(フレーベル館)になったのは1975(昭50)年である。
やなせさんが「アンパンマンの顔を描くとき、どこか似ているところがあって」と、話していたのが2歳年下の弟・千尋さんだ。千尋さんは22歳で戦死した。この物語の千尋もそう。分かったのは1946(昭21)だった第62回のことだった。
千尋も千尋さんも京都帝大法科を卒業したあと、海軍予備学生に志願する。約1年の訓練を経て海軍少尉となり、駆逐艦の乗組員になった。
駆逐艦任務は危険度が高い。やなせ氏は著書『わたしが正義について語るなら』(ポプラ新書)に「海軍特攻隊」と書いたほど。入隊後の1944(昭19)年だった第53回、千尋と会った嵩が「どうしちゃったんだよ!」と語気を強めたのも無理からぬ話だった。
その7年前の1937(昭12)年、2人を愛した養父・寛(竹野内豊)は嵩のことを「いごっそう」と評した。高知弁で「信念を曲げない男」「気骨のある男」などを意味する。第32回だった。
確かに嵩は戦争が大嫌いという信念を曲げなかった。また、生きて日本に帰ろうと努め、気骨も見せた。
寛は千尋のことは「我慢し過ぎる。遠慮しよったら、いかんこともある。もっとわがままに生きりゃいいがじゃ」と評した。
第53回で嵩と会った際の千尋は、のぶがずっと好きだったと打ち明ける。生還したら告白するつもりだった。のぶが結婚していることは気にしないと言った。生死の懸かった戦いを控え、思うままに生きる決心が付いたのだろう。
2歳のときに寛の養子になって以来、1度として母子らしい会話をしていない母親・登美子(松嶋菜々子)に「親孝行がしたい」とも口にした。本当は心のどこかで慕い続けていたのである。嵩にしてみたら、のぶへの思いの告白より驚きだったのではないか。
だが千尋は帰って来なかった。






