洗脳が解かれ、ヒロインが口にした衝撃の言葉 「あんぱん」戦後、地獄の苦しみが始まった
のぶと嵩はなぜ幼なじみ?
おそらく黒井は意識していなかっただろうが、のぶとうさ子に施されたのは典型的な洗脳の手口である。授業料が官費だから学校への不満が言いにくかったのも影響したのではないか。逃げ場のない全寮制だったのも関係したはずだ。
一方、1937(昭12)年だった第26回に嵩が入学した東京高等芸術学校の教育は女子師範とは正反対。担任の図案科教師・座間晴斗(山寺宏一)は「机で学ぶことは何もない。銀座に行け」と指導する。この上なく自由な校風だった。
次の第27回、座間は図案科の歌である「ワッサン」を生徒たちに教えた。♪ワッサ ワッサ ワッサリン――。
座間と生徒たちはさっそくカフェでこの歌を合唱する。陸軍の軍人から「やめい」と命じられたが、座間は「やめん」と突っぱねる。座間は反骨精神も教えた。
この教育の成果があってか、高等芸術学校の生徒には国家主義に傾倒したり、軍部を崇拝したりするような者が見当たらなかった。その分、のぶたちが受けた国家主義の異様さが際立った。
制作者側の狙いどおりだろう。のぶが国家主義という正義を信じ、それが引っくり返って、途方に暮れるからこそ、嵩と二人三脚の「逆転しない正義」探しに熱が入る。観る側の関心を引く。
嵩とのぶを幼なじみという設定にした理由にもつながる。2人のモデル・やなせたかしさんと暢さんは実際には高知新聞社の同僚として知り合った。1946(昭21)年春のことだった。
もっとも、のぶに正義が逆転する経験をさせないと、嵩と2人でアンパンマンに辿り着くという物語が紡ぎにくい。やなせさんと嵩は中国に出征した際、正義の逆転を経験した。一方、暢さんが似た経験をしたかどうかは分からないのである。暢さんの戦時下には不明点が多いのだ。
著名人ではないからだ。たとえば、暢さんは周囲に「出身は高知」と話していたものの、実際には大阪生まれだった。卒業したのも大阪の高等女学校。おそらく商社マンだった父親・池田鴻志さんが高知生まれだから、そう言っていたのだろう。
モデルがいる朝ドラの場合、個人史の変更はよく行われる。逆にモデルの歩みを忠実に再現する作品はまずない。朝ドラも大河ドラマもドキュメンタリーではないのだから。モデルの気質を登場人物に注ぎ込めばいいのである。
やなせさんの著書『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)などを読むと、暢さんとのぶはそっくり。面倒見がよく、はちきん(気が良く、負けず嫌い)である。
1947(昭22)年、やなせさんが高知新聞社を辞めて上京するかどうかで迷っていると、先に辞めていた暢さんは退職を勧める。根拠は見当たらないのだが、「収入が途絶えたら私が食べさせてあげる」と豪語した。1940(昭15)年の第43回で次郎と結婚するまで、嵩の保護者的存在だったのぶを思い起こさせる。
暢さんとのぶは暮らしぶりも符合する。次郎は船の機関士だったが、暢さんの夫・小松総一郎さんもそう。また2人とも1946(昭21)年に肺病で他界した。のぶも暢さんも夫から譲られたドイツ製カメラを持つ。夫の影響で速記を習得するところも一緒だ。
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