「別れるなら死にたい」「ずるいのは分かってる」50歳夫にここまで言わせる5年不倫 後に壊れる家庭の始まりは

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再びの就職先で思わぬ展開に…

 同じような状況で、アルバイトなどの非正規に流れ、そのまま正社員になれない者も多かった時代だが、彼はそうはしなかった。資格をとろうと考えたのだ。

「アルバイトをしながら、とある技術系の国家資格をとりました。大変だったけど、あのときがいちばん勉強したかもしれない。ここで踏ん張らないと一生浮かばれない。転落していく自分が見通せた。もともと楽な方に流れていくタイプなんですよ。あんまりがんばったことがない。でもこのときだけはヤバいと本能的に思いました」

 25歳のとき資格を生かして、社員5人の企業に就職した。正社員ではあったが給料は安かった。いつか独立するための一歩だったから、それでよかった。

「それなのになぜか僕は、その企業の継承者になっちゃったんです」

社長の「ひとり娘」と

 社長にはひとり娘がいたが、彼女は会社を継ぐ気などなく、児童教育の仕事に就いていた。

 康太朗さんが懸命に仕事を覚えようとしている姿は社長の目に留まり、ひとり娘の心を動かした。とはいえひとり娘の燿子さんは彼より5歳年上だった。

「社長がその話を遠慮がちに出してきたとき、僕は28歳。入社して3年でした。まだ結婚するつもりもなかったし、そもそも彼女のこともよく知らなかったし。あと2年たったら独立したいと思っていたんです。でも社長には恩義を感じてはいましたから、悩みましたね」

 煮え切らない彼を、社長は家に呼び、一緒に夕飯をとる機会を増やしていく。このまま取り込まれそうな不安を覚えながらも、彼はだんだんその状況に慣れていった。燿子さんは「良くも悪くも、ごく普通の女性」だった。常識的で保守的な面があった。社長の妻が気の強い女性だったため、「ああはなりたくない」と思って育ったらしい。

「僕は社長の奥さん、好きだったんですよ。自分の意見ははっきり言うし、とてもさっぱりしていた。社長も奥さんの言いなりだったけど、それをよしとしていた。でも燿子はそれを見て育ったから、むしろ嫌だったんでしょうね。おかあさんはおとうさんを大事にしていないと言っていました。そんなことはないように見えましたけどね、他人の僕には」

子宝にも恵まれて

 30歳が近づき、独立するか社長のあとを継ぐか、いよいよ決断を迫られて彼は、ここで勝負してみようと決めた。独立してもうまいくとは限らない。他人の敷いたレールだが、この会社を発展させるのも大きなチャレンジだと思った。

「燿子の気質もわかってきたし、なんとなくうまくはやっていけそうな気がしたので。ただ、正直言って養子に入るのは少し抵抗があった。でも先方はそれを望んでいるわけだし。悩んだけど、名前は記号だと割り切って養子に入りました。うちの親はちょっとショックを受けていたようですが」

 結婚して数ヶ月後には妊娠がわかった。しかも双子だったから、双方の両親は大喜びだった。次期社長の椅子は約束され、結婚して子宝にも恵まれた。特に幸運な人生だとは思っていなかったが、このときばかりは「いい星の下に生まれたのかも」と思ったという。

 ***

 順調に見えた康太朗さんの人生。それが、なぜ、「別れるなら死にたい」と口にするまでの不倫をするに至ったのか。【記事後編】ではその過程と、“不倫5年目の現在地”を紹介する。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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