「別れるなら死にたい」「ずるいのは分かってる」50歳夫にここまで言わせる5年不倫 後に壊れる家庭の始まりは

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サラリーマン家庭に生まれて

 康太朗さんは都内のサラリーマン家庭に長男として生まれた。3歳違いの弟との4人家族は、ごく普通の暮らしをしていた。

「昔でいう中流家庭だったと思います。都内のはずれですが一応、小さな持ち家があって、母はパートで働いていて。僕も弟も高校までは都立で、大学は私立。学費も出してもらえました。『資産は残してやれないから、行きたければ大学まで行け』というのがオヤジの口癖でしたね。オヤジは高卒だったから、子どもたちは大学まで行かせたいと思っていたようです」

 ちょっと口うるさいが料理上手、倹約上手な母親と、口数は多くないが決めるときはバシッとかっこいいことを言う父親。彼は親子関係のむずかしさも特に感じたことはなかったが、弟は思春期に母親と相当揉めていた。

「僕は『お兄ちゃんなんだから』とよく言われていたけど、あまりおふくろの言うことは聞かずに好きなようにしていました。弟は繊細なところがあって、おふくろに逆らえない。子どものころ病弱だったこともあり、おふくろは弟には過保護だった。だから弟は大学を出るとぷいっと放浪の旅に出て数年間、帰ってきませんでした」

時代は氷河期、就職先は

 帰国してからも実家には寄りつかない。弟によって実家の家族関係はおかしくなっていったと彼は言う。だが、彼がそれを気に病んだことは特になかった。子どもというのは親を乗り越えて社会に出ていくものだと思い込んでいたからだ。

「大学を出たものの思い切り就職氷河期でしたからね。僕も希望のところには就職できなかった。でも世の中なんて思い通りにはならないと思っていたので、先輩を頼って中堅企業に潜り込みました。オヤジは『大学までやったのに』と内心、思っていたんじゃないかなあ。社名を告げたときオヤジの顔が一瞬、曇りました。名前を知らない会社だったから」

 仕事は生活の糧を得る場所と彼は割り切っていた。有名な会社でなくても生活できればそれでいい。若かったんですよねと彼は笑う。

「入社してみたら、それはそれで僕も『やりがい』なんてものを求めてしまった。今思えばかなりのブラック企業でした。9時始業なのに、みんな8時に来てるんですよ。毎朝、社長の訓示があるんだけど、これが訓示ではなく、だらだらした世間話。何を言いたいのかさっぱりわからない。しかも社員ひとりひとりに感想を求めるんです。みんなおべっか使ってばかり。僕も適当なことを言っていたんですが、あるときふっと『どう思う?』と聞かれて『いや、社長の話はさっぱりわからない』と言ってしまいました。ディスるつもりはなかったんです。ちょっとぼーっとしていたところに聞かれたものだから、つい正直な感想が洩れてしまった」

 社長は黙ったまま顔を真っ赤にしていた。周りはあわてふためき、彼を非難の目で見つめている。バカバカしいと思った。

「バカバカしいから辞めますわ、とそのまま出社しませんでした。入社半年くらいだったかなあ。もちろんその会社にいた先輩には迷惑をかけましたが、あとから謝りに行ったら『しょうがないよ。思い切って辞めたおまえはエラい』と逆に褒められた」

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