【べらぼう】福原遥「誰袖」こそ花魁の鏡 “海苔”“豆腐”も使って客をだます「吉原」の手練手管

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女郎がみな読み書きができた理由

 そして「三」の「手」である。その基本中の基本は、朝、客を見送ることだった。見世の戸口まではもちろん、吉原のメインロードである仲の町や入口の大門まで見送って、情があるように感じさせ、次の来訪につなげる必要があった。

 だが、客をつなぎ止めるためにもっとも大事なのが、ていねいな手紙だった。たとえば、17世紀後半に藤山箕山という人物が、30年かけて全国の遊里を渡り歩いて記した『色道大鏡』にも、女郎には手紙が大事だった旨が書かれている。実際、女郎はこまめに手紙を書くように指導された。このため、女性の識字率が決して高くなかった時代に、吉原の女郎はほぼ全員が読み書きができた。

 昨晩の客には、来訪してくれた礼を記し、話したりなかったことを書き、ぜひまた近日中に遊びにきてほしい、早く会いたい、などと書き連ね、客がまだ温もりを忘れないうちに届けた。馴染みの客には、体を壊していないか、数日会っていないだけなのにずいぶん会っていないように思える、早く来てほしい、といったことを書いた。

 また、吉原の女郎たちはなにかと物入りだった。身の回りの品の多くは自腹でそろえる必要があり、催事があるたびに、やはり自腹で着物を新調し、さらにお付の新造や禿の分まで新調したうえ、妓楼の奉公人らに祝儀を渡す必要があった。このため女郎は、ねだれる客には、手紙で金を無心した。

ウソをつかなければ生き延びられない

 客も女郎にねだられるのはわかっていたから、手紙がくるとギクリとすることが多かったようだ。しかし、それでもお気に入りの女郎から無心されると、用立てる客は多かったという。

 むろん、女郎がこうして手紙に書く内容も、客に語りかける言葉も、基本的には素直な心情表現ではなかった。妓楼では先輩格の女郎が若い女郎に、効果的なウソのつき方を伝授するのが通例だった。いわば、ウソをつくのは、女郎という職業には必須のことで、それができなければ、毎日、多くの客の相手をしながら生き延びることはできなかった。

 むろん、お金を巻き上げるための口上も、ウソが満載なのが一般的で、その点、『べらぼう』で描写される誰袖のしたたかな手練手管は、吉原の女郎そのものだといえよう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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