幼児と主婦だけを狙って6人殺傷…深川通り魔事件「川俣軍司」と警視庁「捜査1課特殊班」の息詰まる攻防
白昼の凶行
午前11時35分から40分にかけて、川俣は6人の通行人に包丁を持って襲い掛かった。ベビーカーに乗っていた男児(1)、その横を歩いていた姉(3)と二人を連れていた母親(27)を失血死させ、その10メートル先にいた主婦(33)も、胸部や腹部を刺し、失血死させた。さらに近くの化粧品店から出てきた主婦(38)は腹部に全治2週間のけが。そして腹部に全治4カ月の重傷を負った主婦(71)は、後にこう供述している。
「自宅に近い(バスの)森下停留所で降りて、日傘をさそうとしたとき、いきなり前方からぶつかってきた男に気づき、何だろうと思ってお腹を見ると、男が何か握った手を押しつけている。何を握っているのか分からず、私が顔を上げると、男と視線が合った。男は、あわてて逃げて行き、その後でブラウスのお腹のあたりに、血がにじんでいるのに気づいた」
長男(3)と次男(1)を義母に預け、商店街に昼食の買い物に来ていた主婦のXさん(32)はその帰り道、川俣と遭遇した。
「前に人の気配がし、すれ違ったとたん、(犯人の川俣に)左手で首を絞められた。はじめは酔っ払いにでも抱きつかれたのかと思って、手を払おうとしたら、冷たい刃物に触れ、これは大変だと思った」(朝日新聞1981年6月20日付)
Xさんはそのまま近くの中華料理店内に引きずり込まれてしまう。店では、店主の男性(31)が朝食を終え、休んでいたところだった。突然、店の戸がガタガタ鳴り、男女の声が聞こえてきたと思ったら、Xさんの首をつかみ、包丁を持った川俣が立っていた。
「てめえら出ていけ! 出ていかないと殺すぞ!」
と怒鳴り散らす。恐怖のあまり店主は妻と子供と店から逃げ、難を逃れた――。
事件を伝える当時の新聞の見出しには「また通り魔」の文字が躍る。実は当時、犯人とは無関係の人が突然襲われる「通り魔事件」が頻発していたのだ。
まず、前年の昭和55年8月19日には、新宿駅西口で男(38)が停車中のバスにガソリンをまいて放火、乗客6人死亡、14人が重軽傷を負った。56年5月だけでも、20日に大阪市北区で女子大生3人が若い男に刃物で切りつけられ、翌21日には東京・新宿区で23歳と19歳のOLが男(48)に空き瓶の破片で顔を切りつけられるなど、20日から30日までに6件も発生していた(2人死亡、7人がけが)。
警察庁では30日の事件を受けて、通り魔事件への対策を検討し始めたばかり。そこへ、6人を刃物で襲い、1人を人質に立てこもるという、警視庁捜査第1課にとっても、未曽有の事件が発生した。
動き出した特殊班
立てこもり事件が起きた場合、捜査第1課特殊班の対応係から偵察工作班(立てこもり内部の状況を正確に把握するための各種工作と偵察)、捕捉班(人質の救出、被疑者の確保)を編成し、現場に設定された指揮本部が動かすことになる。特に、最前線で被疑者との交渉にあたる捜査員はベテランが充てられ、装着したマイクからやり取りのすべてを指揮本部はじめ、主要捜査員が共有する。現場には心理の専門家(警視庁職員)を派遣し、被疑者の言動から特異な兆候を探ることもある。
だが、この事件が起きた当時、特殊班は存在していても、そこまでの体制はできていなかった。捜査の現場では場数(事件)をこなしていくことで、反省や教訓を生かし、対策や手法が考えられていくのである。
清野力蔵・捜査第1課長(当時)は、発生の一報を霞が関の警視庁本部で聞いた。
「私もすぐに1課長車に飛び乗り、現場に向かいました。当時は無差別通り魔殺人なんて珍しく、私も初めての経験だった。大変な事件にショックを受けました」(「週刊新潮」2004年8月26日号)
清野課長は特殊班に加え、殺人担当の第6係にも出動を命じた。中華料理店に到着すると、中には所轄の深川警察署の刑事や先着した特殊班員がいた。店内にはテーブル席と厨房があり、
「その一番奥に8畳間があった。私は他の捜査員の間を縫って、店と8畳間を隔てる障子の前に立ちました」(同)
そして店内の椅子やテーブルを外に出し、捜査員が動きやすい状態にした。捜査第1課長、管理官、特殊班係長、殺人担当第6係長ら十数人が陣取り、障子1枚を隔てて川俣と対峙した――。
【第2回は「白昼の路上で6人を殺傷し、人質女性の背中を何度も包丁で傷つけ…身勝手極まりない殺人鬼『川俣軍司』が“ブリーフ姿”で連行された意外な理由」緊迫する立てこもり現場と逮捕後の緊迫した捜査】