巨人入団後、最初のキャッチボール相手は「レジェンドレスラー」…「長嶋茂雄さん」とプロレス界の知られざる深い絆
猪木とミスターの関係
馬場の母は1971年7月、永眠。新潟に帰省した馬場は、顔だけを見て通夜を待たず、すぐさま故郷を離れている。その夜、試合があったのだ。馬場は当時、日本プロレスの大エースだった。1980年4月には、国内連続試合出場3000試合という記録も達成しているが、その中にはもちろん、母の通夜の日も含まれている。
猪木は1987年10月26日(現地時間)、ブラジルに住む実母の文子さんを亡くした。危篤の報は既に数日前に入っていたが、同年10月25日、両国国技館でIWGPヘビー級王者としてスティーブ・ウィリアムスと戦わねばならなかった。無事防衛した後に入った訃報に、「こんな仕事だから親の死に目にはあえないだろうと覚悟していた」と気丈に語ったが、さすがの猪木も、実母の死には寂しそうだったという。
知られる話だが、長嶋と猪木の誕生日は一緒である(2月20日。それぞれ1936年、1943年生)。だが、接点は意外にも少ない。佐藤栄作、中曽根康弘が、おのおの首相在任時に主宰したプロスポーツ関係者との懇親会(それぞれ1970年、84年)で顔を合わせたり、猪木の政党であったスポーツ平和党から江本孟紀が出馬する際、公示日前だが長嶋が応援にかけつけ、挨拶をかわしたりした程度である(92年)。
はっきりとした共演と言えるのは、2003年12月、猪木の肝いりで日本テレビで大晦日に行われる格闘技大会の宣伝番組に長嶋が出演した時だが、視聴した限りでは、猪木は妙に緊張した様子で、長嶋は翌年のアテネ五輪で野球・日本代表監督が予定されていただけに、そちらへ気持ちが飛んでいることをうかがわせた(※翌年3月、脳梗塞に倒れ、五輪は断念)。互いの道がこれ以上なく鮮明な2人だけに、交わりがなくとも納得出来た。
上述の通り1994年、中日を最終公式戦で倒してリーグ優勝すると、日本シリーズでも西武を下し、巨人は日本一に。シリーズMVPには、FA残留した槙原が選ばれた。本人が回顧する。
「翌日、しこたま飲んで昼に帰宅するのとほぼ同時に、『ピンポーン』と呼び鈴が鳴りました。四角い大きな包みが届きました。開けてみると……マティスの絵でした。『一番活躍した投手には……』という長嶋さんの気持ちを受け取って、僕は本当に嬉しかったですね」
同年、巨人に復帰したものの、一度も登板せず、引退した名投手もいる。通算165勝を誇る西本聖だった。1980年代前半は江川卓と並ぶ巨人の両輪だったが、他球団を経て戻って来たところ、投手コーチに嫌われた。公式な引退試合もなく、翌年1月、定岡正二ら、有志たちによる引退試合が多摩川グラウンドでおこなわれたが、最終回にサプライズなコールがあった。
「代打……長嶋茂雄!」
西本のために駆けつけたミスターは、セーターにスラックス姿ながら、3塁ゴロにも革靴で全力疾走。「彼のような不屈の闘志を持つ男を、我々は忘れてはいけないということ」と西本をねぎらった。ミスターを打ち取り、“166勝目”を挙げた西本は、「色々な方が引退試合をされたけれど……誰が何と言おうと、僕のが最高だと思います」と涙した。
ミスターの人生は文字通り、“ミスタープロ野球”として、野球と、野球人を愛し続けた一生だった。
猪木が、脳梗塞からリハビリ中の長嶋に、詩を贈ろうとしたことがあったという。猪木没後の2023年夏、「アントニオ猪木展」で直筆のそれが公開されていた。
「ながい人生
がんばり励んで
しんじた道に
まいた種
しげみは広がり
げんきよく
おおきな夢をありがとう」
縦読みすると本人の名前になる以上に、激しい感銘を受けた。あのアントニオ猪木に、「大きな夢をありがとう」と言わしめた人間など、他にいなかったのではないか。今年は昭和100年。まさしく昭和を代表するスーパースターだった。
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