巨人入団後、最初のキャッチボール相手は「レジェンドレスラー」…「長嶋茂雄さん」とプロレス界の知られざる深い絆
2000年代に入ってから何度か取材したプロレスラー・高田延彦のインタビューから。
「長嶋茂雄さんに憧れて野球を始めてね。少年野球ではオール横浜に選ばれたんですよ。引退試合(1974年10月14日)を見た直後には、家を飛び出て、夕闇の中、友達と泣きながらキャッチボールをしたんです。『長嶋、辞めちゃったよ』って。そしたらなんだか野球熱も急に冷めちゃって……。そこに入り込んで来たのがウィレム・ルスカ戦やモハメド・アリ戦(共に1976年)に挑む、アントニオ猪木さんだったんです」
ミスターこと、長嶋茂雄が逝かれた。野球界だけにとどまらない、文字通りのスーパースターであり、プロレス界とも交流ある巨星だった。過去に取材したプロ野球選手へのインタビューも含め、プロレス界とのかかわりを振り返りたい。 (文中敬称略)
【写真】長嶋茂雄さんが巨人に入団後、初めてキャッチボールをした相手は、誰もが知るレジェンドレスラー。その大きさに改めてビックリ!!
「馬場ちゃんは、やっぱりジャイアンツの選手」
実は長嶋茂雄は、力道山期のプロレスの熱心な視聴者だった。初めてテレビを見た時の体験をこう語っている。
〈そのときは、力さん、そう、力道山の出ているプロレスでした。当時の国民のみなさんも食い入るように見たんでしょうが、ぼくもやっぱりまったく同じでしたね〉(サライ編集部編『昭和のテレビ王』小学館文庫)
長嶋とは同じ立教大学の先輩で、記事を書いたこともあるというプロレス評論家の菊池孝さんは、「いや、彼は(力道山の好敵手である)ルー・テーズも応援していたけどね(笑)」と仰っていたが、力道山に心酔していたのは事実のようで、筆者にこんな秘話を教えてくれた。
「立教大学野球部の智徳寮のテレビで、毎週プロレスを観ていたと言っていたな。『新宿にあった街頭テレビでも観ていました』とも聞いたよ」
1958年にプロデビューすると、力道山とは知己になり、63年におこなわれた力道山の披露宴にも出席している。また、その没後は、夫人である田中敬子さんとパーティーで同席するなど、親睦を深めた。特に長嶋夫人の亜希子さんと敬子さんの交流は厚く、気の置けない仲だったことはよく知られている。読売巨人軍入団後、最初のキャッチボール相手が、馬場正平投手、つまり、後のジャイアント馬場だったことも有名で(1958年2月17日。多摩川グラウンド)、馬場の死が報じられた1999年2月2日には報道機関から直撃を受け、こう語っている。
「私にとっては馬場ちゃんは、やっぱりジャイアンツの選手のイメージ」
次にプロレス界で仲良くなったのが、新日本プロレスの面々だった。団体の道場が、巨人の多摩川グラウンドの近くだったこともある。特にひょうきんな中堅選手、ドン荒川とは親しくしていた。様々なタニマチにことかかなかった荒川の、極めて外向的な性格がモノを言ったのだった。
「闘魂三銃士」と呼ばれた武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋など、80年代に新日本プロレスの若手だった選手たちのほとんどが荒川のコネクションで、ミスターと食事をしている。
「多摩川グラウンドは近いし、荒川さんが長嶋さんと仲が良かったですからね~。当時、巨人ファンじゃないと、新日本道場に入らせないぞという感じでしたから」
とは佐山聡(初代タイガーマスク)の弁である。因みに、1986年11月12日には、横浜中華街に今もある名店「天外天」にて坂口征二、藤波辰爾や、前述の闘魂三銃士も含めて会食しているが、同店の看板文字は、ミスター自ら書いたものを造形化したもので、ミスター信者なら訪れたいもの。
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