伝説の女優「原節子」が14歳で映画界入りを決めた“家庭の事情” 父の事業が行き詰まり“着たきり雀”だった少女時代

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息を呑むほどの美しさ

 1930年代から60年代にかけて燦然と輝いた女優、原節子。42歳での完全引退後は鎌倉で隠居生活を送ったが、息を呑むほどの美しさを世間が忘れるはずもない。幾度となく再評価のブームが起こり、隠居中の姿を追う報道も度々注目された。

 平成27(2015)年9月5日、95歳で死去するまで独身を貫き、醜聞ひとつ残さなかった「永遠の処女」。たしかに、生半可な気持ちでは近寄れないほどの美貌であった。だが、本当に恋の話はなかったのだろうか。また、結婚話が噂になった1つ年上の名監督、小津安二郎との仲とは――。

 今年6月17日に迎えた生誕105年に際し、20年前の「週刊新潮」から、原節子の素顔を知る元隣人や映画関係者の貴重な証言集をお届けする。『週刊新潮が撮った 昭和の女優たち』でセレクトされた珠玉の名カットとともに、当時の彼女が放っていた輝きを堪能していただきたい。

(全2回の第1回:「週刊新潮」2004年12月30日・2005年1月6日号「原節子の『秘められた恋』」を再編集しました。文中一部敬称略。年齢、役職等は掲載当時のものです)

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姉2人は振袖姿で通学

 原節子の本名は会田昌江。大正9年6月17日、横浜市保土ヶ谷区で、二男五女の7人きょうだいの末っ子として生まれた。

「昌江ちゃんのお父さんは顔の彫りの深い人でした」とは彼女の幼友達。「もともとは、東京・日本橋の商家の出だったと聞いています」

 父・藤之助氏は日本橋区米沢町(現在の中央区東日本橋)の出身で、明治44年に保土ヶ谷区に移り住んだ。

「お父さんは衣類関係の問屋をしていました。景気の良かった頃は、家の玄関にアヤメ科のいちはつの花がずらっと並んでいて、それは綺麗でしたね。上のお姉ちゃん達は、横浜の山手にあるフェリス和英女学校(現・フェリス女学院)に横須賀線の2等列車(今のグリーン車)に乗り、振袖姿で通っていました」

 とは会田家を知る保土ヶ谷区の隣人。長兄・武雄氏は東京外国語学校、次兄・吉男氏は明治大学に進んだ、というから、当時としてはかなり裕福な家庭だったといえる。

図書館まで山を越えて歩き読書三昧

 末っ子の原節子は、昭和2年、横浜市立保土ヶ谷尋常小学校に入学した。

「昌江ちゃんは、キレイでスタイルも良かった。おまけに頭もすごくいい」というのは、小学校の同級生だった岡田喜和さん(84)である。

「あの頃のテストは7科目10点ずつで、70満点でしたが、彼女はいつも69点も取るの。トップクラスの成績でしてね。計算を解くのが早くて、授業中に先生が黒板に数字をたくさん書いて計算させては、すぐ消してしまいますが、彼女だけはちゃんと答えられた。昌江ちゃんは、いつも級長で胸に赤いリボンをつけていたわね。子供心に劣等感が湧きましたね。私たちが近所で石蹴りなんかして遊んでいる時、昌江ちゃんは野毛山の図書館まで山を越えて歩いていって本を読んでいました」

 聡明な美少女――。小学校時代の写真を見ると、目鼻だちの整った綺麗な女の子だったことがわかる。

「お母さんも、この辺りでは“小町”と呼ばれるほどの美人だったんですよ」と言うのは、先の保土ヶ谷区の隣人。

「でも、関東大震災で沸騰していた鍋を頭からかぶってしまい、大火傷を負ったのです。以来、ずっと家の中で寝ていましたね。不幸な出来事でした」

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