伝説の女優「原節子」が14歳で映画界入りを決めた“家庭の事情” 父の事業が行き詰まり“着たきり雀”だった少女時代
家業が傾き「家のために」映画界へ
不幸はさらに続く。昭和4年、米国に発した世界恐慌は日本にも波及し、会田家に暗い影を落す。
「生糸が暴落して、お父さんの仕事もうまくいかなくなり、昌江ちゃんの家も傾いてしまったのです。彼女はいつも同じ服を着ていて“着たきり雀”でした」(保土ヶ谷区の隣人)
昭和8年、私立横浜高等女学校(現・横浜学園)に進むものの、2年生で中退する。映画女優になっていた次姉・光代の夫である日活監督の熊谷久虎氏に、映画界入りを勧められたのだ。
〈当時、私の家は経済的に困難の度を加えてきましたから、年上の義兄や姉がすすめるなら、家のためにはそのほうがいいのかしらと思いました〉(『映画ファン』昭和27年11月号「私の歴史1」)
将来、教師や外交官夫人になることを夢見ていた14歳の少女は、学業を断念し、映画という未知の世界に一歩を踏み出した。
「当時の校長が、“学費は面倒みるから”と退学を思いとどまるように説得したのですが、学校を去っていったようです」(横浜学園関係昔)
熱狂的な見送りを受けてドイツへ
昭和9年、東京・世田谷の義兄宅で暮らし始めた彼女は、翌10年8月に日活映画「ためらふ勿れ若人よ」でデビューする。
翌11年4月に封切された、デビュー6作目の「河内山宗俊」(山中貞雄監督)で原節子を見た新藤兼人監督(92)はこんな印象を持った。
「あの映画は、中村翫右衛門や河原崎長十郎、市川扇升といった中年の男の歌舞伎役者ばっかりだった。その彩りとして彼女は出ていたが、15、16歳の娘役で可憐だった。周りが芝居がかっている中で、彼女は芝居らしい芝居もしなかったからまた目立っていた」
彼女に注目したのは、新藤監督だけではなかった。日独合作映画「新しき土」を製作するために来日していたアーノルド・ファンク監督が「河内山宗俊」の撮影を見学に来て、原節子を主役に抜擢したのである。
「新しき土」は日本、ドイツをはじめヨーロッパ各国で公開され、大ヒットした。16歳の女優は一躍、スターダムにのし上がった。舞台挨拶のため、ドイツに招聘されるが、東京駅の見送り風景は熱狂的だった。朝日新聞は伝える。
〈殺到したファンがざつと二千人。その中、目の色を変へた男学生が約六割、車の窓に獅噛み付く恥も外聞も忘れた四十男の一団が、広いホームを埋めつくしてひしめき合ふ、中学生から大学生、サラリーマン、店員、女学生、職業婦人等々雑多な見送り〉(昭和12年3月11日付)
まるで今のアイドルを追いかける騒ぎのようだ。義兄・熊谷久虎監督も同行したドイツへの旅は、その後欧州各国、米国を歴訪、4カ月後の同年7月、帰国する。そして、まもなく原節子と熊谷久虎監督は東宝に移籍する。
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