伝説の女優「原節子」が14歳で映画界入りを決めた“家庭の事情” 父の事業が行き詰まり“着たきり雀”だった少女時代

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戦争の他にもう一つあった“恋の障害”

 以後、フリーになるまで、17歳から27歳まで東宝で過ごすことになる。「上海陸戦隊」、「ハワイ・マレー沖海戦」、「望楼の決死隊」など数多くの戦争映画にも出演した。

 この青春時代、恋はあったのだろうか。彼女は後に、こう振り返っている。

〈戦争中は恋愛なぞ考えるいとまもありませんでした。だけれど唯誰かを愛していなければあの大苦痛、狂いそうな時間の連続にはたえられないような気がしました〉(「民報」昭和22年6月2日付)

 何とも微妙な言い回しで、である。恋愛などない。でも、想う人はいた、とも読める。戦争の他にもう一つ恋の障害がある。ステージママならぬステージ義兄、熊谷監督の存在である。

「僕が東宝に入社したのは昭和15年でした。節ちゃんその頃19歳でしたね」

 というのは、堀川弘通監督(88)である。

「ある時、撮影所の前の食堂で節ちゃんと2人で食事をしたことがあった。その時、節ちゃんがしみじみと“堀川さんはいいな”と言うのです。私は大学を出て映画監督になりたくて東宝に入った。誰にもしばられずに、好き勝手なことをしていました。それが、節ちゃんには羨ましかったのかもしれない。彼女にはいつも熊谷監督がついていて、全て仕切っていました。その縛りが嫌なのかと思いましたね。撮影所の中には、節ちゃんのことを好きな男は多かったと思う。でも、怖い人がついていたので近づきにくかった」

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 第2回【伝説の女優「原節子」との仲を「小津安二郎監督」の身内はどう見ていたか…新進女優時代に“相思相愛”だった「4歳年上の助監督」とは引き裂かれ】では、原節子と小津監督を「噂通りの関係なのか見ていた」という助監督、「俺のカチンコに惚れた大女優がいた」と豪語した監督、そして本当にあった「切ない恋」などについて明かす。

デイリー新潮編集部

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