生誕100年「ポール・モーリア」いまだ褪せない楽曲の魅力とは 大ヒット曲「恋はみずいろ」に秘められたエピソード

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ポール・モーリアが選んだ「第4位」の曲

 ヨーロッパで毎年開催されている「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」は、1956年創設の、歴史あるイベントである。ヨーロッパ放送連合が主催する、国別対抗のポップス楽曲コンテストだ。優勝すると世界的ヒットになることも多く、ジリオラ・チンクエッティ《夢見る想い》(イタリア代表)、フランス・ギャル《夢見るシャンソン人形》(ルクセンブルク代表)などの人気曲を生み出していた。ちなみに1974年の第19回で優勝するのが、スウェーデン代表、ABBAの《恋のウォータールー》である。

 1967年の第12回は、オーストリア・ウィーンのホーフブルク宮殿で開催され、サンディ・ショー《恋のあやつり人形》(イギリス代表)が優勝した(注:キャンディーズの同名曲とは無関係)。

 さっそくフィリップス社で、ポール・モーリアによる、優勝曲をふくむアルバムの制作がはじまった。A面1曲目が、優勝曲《恋のあやつり人形》だった。ほかにビートルズの《ペニー・レイン》なども収録された。だがポールは、どうしても、もう1曲、加えたかった。おなじ第12回で「第4位」におわり、あまり注目されなかった《L'Amour est bleu》である。ルクセンブルク代表として、ギリシャ人のヴィッキー・レアンドロスがフランス語でうたった曲だ。作曲したアンドレ・ポップは、1960年第5回の優勝曲《トム・ピリピ》の作曲者である(NHK「みんなのうた」で、ダーク・ダックスがうたった)。また前年の1966年には、マリー・ラフォレの《マンチェスターとリバプール》を作曲し、ヒットさせている(イギリスでは、ピンキー&フェラスがうたった)。

 このLP「アルバム№5」は、一部が再構成され、「Blooming Hits」と名を変えてアメリカで発売された。このなかの《L'Amour Est Bleu》(アメリカでの英語題《Love Is Blue》)を、ミネアポリスのDJがラジオで流した。するとすぐにリクエストの電話が殺到し、地元電話局の交換台はパンク状態になった。翌日からラジオ局には、山ほどの手紙が届くようになった。

 フィリップス社は驚いてしまい、この曲を、45回転シングルにカットして全米発売した。するとすぐに、1968年1月、ビルボードTOP100で99位に入った。外国(フランス)の、しかも、インストゥルメント曲が、アメリカでTOP100に入っただけでもすごいことだった。

 ところが、1月26日には18位、2月3日に7位となり、2月10日から5週間連続で1位のビッグ・ロング・ヒットを記録するのである。最終的に、シングル200万枚、アルバム80万枚のセールスに至った(もしこの年8月発売の、ビートルズ《ヘイ・ジュード》がなければ、確実に年間第1位だった)。

 日本でもシングルが大ヒットし、オリコンで最高位18位、12万枚のセールスとなる。邦題は、いうまでもなく《恋はみずいろ》。だが本国フランスでのセールスは3万枚で、まあまあのヒット。やはりポール・モーリアは、まず、アメリカと日本で爆発的ヒットを飛ばしたのである。

 しかしなぜ、原曲をうたったヴィッキー・レアンドロスよりも、ポール・モーリア版のほうが、ヒットしたのだろうか。そしてなぜ、本国フランスよりも、アメリカや日本で人気となったのだろうか。

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