「几帳面にせっかちと、芸と同じ性格」「人をからかう話題や下ネタは言わなかった」 昭和のいる・こいるの知られざる“素顔”
バイト先の歌声喫茶で
のいるさんは1936年、石川県の山間部生まれ。本名は岡田弘。地元で代用教員に就いた後、上京し国士舘大学に学ぶ。歌が好きになりアルバイト先の歌声喫茶で64年、8歳年下のこいるさんと出会う。ロシア民謡などを歌う一方、司会進行を務める二人の掛け合いが面白いと評判になる。
漫才を勧められ、66年、東京漫才の人気者「獅子てんや・瀬戸わんや」に入門。
「笑って和む」の「笑和」を転じ「昭和」、「のいる・こいる」には苦労を“乗り越える”志を込めていた。
76年に「ツービート」らを抑えて、NHK漫才コンクールで最優秀賞を受賞。だが、80年代の漫才ブームに乗る芸風ではなかった。
売れても威張らず
東京漫才の最古参で交友の深い「青空球児・好児」の青空好児さんは思い返す。
「二人は几帳面にせっかちと芸と同じ性格です。真面目で仲が良い。人をからかう話題や下ネタを言わず、お客をいじることもない」
88年、落語協会にも所属。東京の寄席に出演するため、落語家の鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)さんの一門に連なる。馬風さんの妻、寺田高子さんは言う。
「礼儀正しく心が温かいのです。年始の集まりにお越し下さった時も自然と気遣い周りを立てていました」
放送作家の高田文夫さんが積極的に紹介、フジテレビのバラエティー番組への出演などを契機に2000年ごろから急に注目を浴びる。
「“漫才のスタイルは昔から変わっていないのにね”と言い、売れても威張ったりしなかった」(好児さん)
仲間からも信頼
13年、体調を崩して降板。脳出血だった。コンビ復活を願い一人で活動したこいるさんだが、21年、前立腺がんにより77歳で先立った。
のいるさんは入退院を繰り返し、5月24日、肺炎のため88歳で逝去。
「履物のそろえ方、お茶の入れ方など礼儀作法や常識を、芸人以前に人として大切だからと若手に厳しく教えていた様子を思い出します。裏表がなく仲間からも信頼され慕われた」(好児さん)
広く一般に知られたのは還暦過ぎと遅咲きながら、心にじんわり響く名手だった。
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