「奔放で型破りな女性皇族」から脱皮 皇室きっての国際派「高円宮承子さま」のDNA
「より良い未来を創るための活発な議論が交わされることを祈念しています」
2月15日、京都で開かれた国際会議「法遵守の文化のためのグローバルユースフォーラム」で高円宮家の長女・承子さまはこう述べ、約40カ国から参加した100人近い若い世代へ熱い討論を呼びかけられた。国際親善を担う皇室の中にあって承子さまは「特に国際感覚に長けている」(外務省儀典官室関係者)という。奔放で型破りな女性皇族というイメージが定着した感もある承子さまだが、皇室周辺者は「実は最も皇族の“あるべき姿”をお考えです」と打ち明ける。30代最後の年を迎えた承子さま、その素顔に迫る。
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今は亡き父のDNA
15歳から24歳までの若い世代(ユース)ならではの新鮮な視点で犯罪を抑止し、安心で安全な社会の実現を議論するために2021年2月、京都で開かれた国連の「京都コングレス・ユースフォーラム」をきっかけに、同年10月には東京で「第1回グローバルユースフォーラム」が、22年12月には京都で第2回が開催された。冒頭のお言葉は、全てに参加してきた承子さまが2月15日、再び京都で開かれた第3回の開会式で述べられたもの。
承子さまは第1回の壇上からも「未来へ向けた心躍る(犯罪防止の)アイデアに触れることをとても楽しみにしています」とのメッセージを世界に発信されていた。「皇室きっての国際派」とも言われる承子さま。宮内庁関係者はこう語る。
「お母様の久子さまも世界を飛び回られていて、承子さまのご活躍はお母さまから受け継いだ血筋によるものだという人も多い」
だが別の宮内庁OBは「やはりお父さまのDNAでしょう」と指摘する。
「高円宮さまはカナダに留学されました。多くの皇族方は英国を中心に英語圏に留学されています。明治時代の日英同盟以降の日英王皇室の友好関係が大きく影響しているわけですが、実はカナダは英語圏と思われがちですが、公用語はフランス語と英語です。両国の領土(植民地)だったためです。ですので、高円宮さまは日英のバイリンガルではなく日英仏の3カ国語を操(あやつ)るトリリンガルでいらした。久子さまもトリリンガルではありますが、承子さまが多言語、多文化へのご理解を早くから深めることとなったのはお父さまの影響がなんと言っても大きいのです」
ただ皮肉なことに、高円宮さまはそのカナダの駐日大使館で倒れて亡くなられている。日本サッカー協会名誉総裁を務め、日韓ワールドカップ(W杯)では皇族として戦後初めて韓国を公式訪問されたのが高円宮さまだ。「サッカーの宮さま」としてのみならず、スポーツ全般の振興に努め、国際交流に尽くされたことで「『開かれた皇室』のスポークスマン的存在」とも呼ばれた皇族だった。
早くから経験を積み
「王様ゲームやったけど 系一切なし(カップルがいた為。)でつまんなかった」―。
2007年に一部報道で引用された承子さまのSNSの投稿文だ。承子さまは犯罪心理学を本場のネイティブ言語によって学ぶため、04年に英エディンバラ大学へご留学。大学側から「留学生ではなく本科生として、腰を据えて学ばれてはどうか」と強く勧誘されたため、学習院女子大学を中退して同大人文科学・社会学部に転入された。だが07年に前出の雑誌記事をきっかけに、インターネット上に「海外でハメを外されたプリンセスの素顔」などの書き込みや投稿が相次ぎ、報道されていなかった「彼氏→タバコ嫌いな彼氏ができた!禁煙してるよ、マジで☆」といった投稿内容まで“さらされた”ことで、奔放なイメージだけが先行することとなった。
「ですが、それはもう20年近く前の話です。ネット社会では履歴やデジタルタトゥーとしていつまでも記録が残ってしまいますが、20年も前の残像を引きずったような間違った先入観は、正されるべきではないでしょうか」(同OB)
一方で、承子さまがグローバルな皇族となっていかれた経緯は、単に高円宮さまの影響だけではないという。
1984年12月に結婚された高円宮ご夫妻の間に承子さまは86年3月、当時は東京・南麻布にあった愛育病院で誕生された。寛仁親王ご夫妻の2人のお嬢さまに続く、今の皇室で3人目の「女王」だった。女王とは、天皇の子や孫にあたる「内親王」以外の女性皇族のことだ。
1998年7月、まだ学習院女子中等科1年だった承子さまは、成田発の英国航空機で英国へ出発され、8月にロンドン発アムステルダム乗り換えのKLMオランダ航空機で帰国するまでの間、エディンバラやケンブリッジなど英国内の4カ所で、早くもホームステイを体験されている。99年7月、中等科2年の時にも成田発の日航機で英国に向かわれ、ロンドンに短期滞在した。
中等科3年の2000年7月には、夏休みを利用してホームステイのため米国を訪問されている。ご滞在先はペンシルベニア州ボールズバーグにある久子さまの友人宅。成田発の日航機でニューヨーク経由で現地入りされた。このように着々と異文化への理解を深め、国際経験を早くから蓄積された承子さまだったが、突如として“あの悲劇”に見舞われる。
02年11月21日午後10時52分、高円宮さまが重症の不整脈「心室細動」のために、搬送先の東京・信濃町の慶応義塾大学病院で急死されたのだ。東京・赤坂のカナダ大使館でスカッシュの練習中に倒れた末のこと。まだ47歳の若さだった。
「学習院女子高等科の制服姿でうつむいていた承子さまの、ショックを隠し切れないご様子は、決して忘れることができません」(同OB)。
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