職人が引き抜かれ、技術は盗まれる…“モノつくり大国”衰退の理由 中小零細企業はいかに収奪され続けてきたか
「競業避止義務」と「職業選択の自由」
こうした取引先への転職を阻止するために、入社時には必ず「同業他社への転職の禁止」に対する誓約書にサインしてもらうようにしていた。いわゆる「競業避止義務」だ。工場で得た独自の技術を利用し、半径数十キロ以内で転職したり独立したりすることを数年間制限する内容だった。
しかし、労働者には「職業選択の自由」が憲法で保障されている。つまり、労働者は原則どこに就職してもいいのだ。それに、大手とトラブルを抱えてしまえば、今後の取り引きが停止される恐れもある。下請けという立場上、大切に育ててきた職人をこうして「引き抜き」という形で奪っていく大手には泣き寝入りするしか術がなかった。
大手から声がかかった職人たちにとっても、提示された給料や福利厚生、そしてなにより大手ならではの「安定」は輝いて見えたに違いない。
それでも父が「ほんのわずかでも抑止になれば」と誓約書へのサインを求めるようになったのには、ある苦い経験があったからだ。
バブルがはじける直前、軌道に乗った工場の規模を大きくしようとしていた頃だった。ある日突然、当時の工場長がベテラン職人のほとんどを連れ出し、よりによって隣町で同業の工場を始めたのだ。
現場からは多くの工具が持ち出され、工場には父と見習いの若手数人、そして大量の金型だけが残された。まだ小さかった筆者には、当時の混乱ぶりを直接うかがい知ることはできなかったが、しばらく両親が家に帰らず、祖母が面倒をみてくれていた時期があったのは今でも覚えている。
一方、こうした他社からの引き抜きや独立に、ただ手をこまねいているわけではない。
父の工場では、職人に1から10までの技術を教えないようにしていた。いわゆる「分業制」だ。職人1人に対し1から4まで、別の職人には3から7までなど、役割を細分化させ、全ての工程を教えることを避けた。さらに、見積もりや最終工程は父しかできないようにし、先述の“事件”のように職人が一緒に辞めて行っても全行程が完結できない仕組みを作り上げたのだ。
父は例の事件が相当、悔しかったのだろう。どこで工具が買えるのか、それすら職人には分からないようにする徹底ぶりだった。
戻ってきた職人たち
大手に引き抜かれ離れていった職人の中には、数か月後、父の工場に戻ってこようとする職人が少なからずいた。最も多い理由は、「大手企業のガチガチな規則」が合わないからだった。
毛色の違う同僚との定例ミーティングや、先輩や上司との上下関係、そして、厳しく管理された納期やコンプライアンス。そうした窮屈な生活に耐えられなくなったんだという。
ブルーカラーを取材していると「売り手市場の今なら、そんな小さな会社にとどまっていないで大手に行けばいいじゃないか」という声を聞くことがあるが、ブルーカラーのなかでは敢えて小規模企業にとどまり「自由」を優先する労働者が少なくないのだ。
父は、自ら去って行った職人を再び受け入れるようなことは絶対にしなかった。どれだけ現場が忙しくても、当人がどれだけ高い技術がある職人だったとしても、やさしく「“オマエの会社”に戻れ」と諭すことが、小さな町工場が持てる最大の矜持だった。
小さな町工場にとって、大手は重要な取引先である一方、無情に切り捨てたり、時にはこうして会社の存続を脅かしたりする存在になることがある。なかには職人を引き抜いたことをひた隠しにする企業もあったが、狭い業界だ。他社から「おたくの職人さん、大手さんに転職したんだね。先日工場で見かけたよ」という話は1週間もすれば入ってきた。
収穫間際の農作物が盗まれる事件や、大きなショッピングモールができた地方で増える駅前のシャッター街の様子が報じられると、今でも自然と当時のことを思い出す。
無論、町工場側も自社の魅力を引き上げる努力をする必要はあるが、10年の投資をネームバリューと安定でかっさらっていく取引先には、やはり悶々とした感情がぬぐえないのだ。
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