参院選を左右する「大局観なき消費税論」「国民民主党現象」 先崎彰容氏が指摘する“違和感”の正体
大局的な視点の欠如
参院選をめぐっては、「消費税論」が一つの争点になると報じられています。
ここで減税自体の是非を、経済の専門家でない私が論じるつもりはありません。
ただ、「減税の是非」が本当に重要な論点なのかと、違和感を抱かざるを得ないのです。我々はもっと大事なことを見落としていて、視野狭窄に陥っているのではないか。今こそ、国のお金の使い方について、俯瞰した議論をすべきなのではないか。そう思えてならないのです。
岸田文雄政権時には、防衛費をGDP比で2%にまで引き上げる方針が決定しました。年金や医療などにかかる社会保障費が財政を圧迫していることも周知の通りです。こうして、いわば究極的な意味での生活インフラである「安全保障」と「社会保障」にかかるお金が膨らんでいるという“全体像”を見据えた議論に乏しいまま、「消費税を下げるのか、下げないのか」「基礎年金を上げるのか、上げないのか」という各論的な論争に終始してしまっているのが、今の日本政治だといえます。
感情論に従えば、消費税は下げた方がいいし、年金の支給額も上げた方がいいに決まっています。高額療養費の負担額も上げてはいけないということになるのでしょう。しかし、そうもいかない時代に既に突入していることは明らかです。
だからこそ、国全体のお金の使い方について、もっと大きな視点から説得する政治家がいないことに危機感を覚えます。減税の是非は、言ってしまえば一つの小さな各論に過ぎない。国家全体の見取り図を考えれば、安全保障と社会保障を同じテーブルに並べて語ることだってあってもいいのではないか。大局的な視点から、物事の優先順位を考える価値観や理念を持ち、国民に納得のいく説明をしてくれる政治家がいないのです。ゆえに高額療養費制度一つとっても、少しハレーションが起きたらすぐにひっこめてしまうわけです。
あんこがあるか、ないかではなく……
たとえば、野田佳彦政権時代には、社会保障制度の維持に対する危機感から、社会保障と税の一体改革に3党が合意することができた。その後政権を失うことになったとはいえ、こうした「国家像」の根幹を決める政治が必要です。野田元総理自身の最近の言葉を使うなら、あんこがあるか、ないかではなく、「なぜあんこ入りのパンを作る必要があるのか」「どうすれば作り続けられるのか」にも、考えをめぐらせる必要があると考えます。
また私たちは、成熟した社会の一員として、「幸福」の尺度を考え直す必要があると思います。身近な例でいえば、35年ローンを組んで住宅を購入したら、利子として借入額以上のお金を払わねばなりません。単純に金銭の損得でいえば、20年ローンにしたほうがよい。でも、35年ローンにすることで、毎月の支払額が「少なく見える」ことは、人に「安心感」を与えます。この眼に見えない価値は、金銭損得とはまた別の「正解」なのです。
今、トランプ関税が税制の専門家から馬鹿にされつつも断行されているのは、もう一つの「正解」、つまり非エリート層が理想視する、古きよきアメリカを取り戻すためです。こうしたスケールの大きい国際社会の理解をふまえたうえで、では日本はどうすべきなのか――。外交と内政いずれも、大胆かつ俯瞰した国家像が必要とされるゆえんです。
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