20年間開けなかった「娘のランドセル」に入っていたものとは…「佐世保小6同級生殺害」 事件を追い続けた記者が明かす「被害女児」父親の今

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被害者の父は、新聞社の支局長

 30代以上であれば、覚えている方も多いと思う。御手洗さんは事件当時、毎日新聞佐世保支局の支局長。この事件の被害者は、新聞記者の娘でもあったのだ。前代未聞の話である。
 ただ、全国紙といっても、県庁所在地でもない佐世保のような衛星支局の人員は少ない。支局長とデスクを兼務していた御手洗さんを含めても、記者の人数は3人。
 そして、私はその3人のうちの1人だった。

 事件の一報を、私は学校にいた御手洗さん本人から知らされた。
「怜美が死んだ」
 支局で受けたその電話の声は、まるで他人事のように乾いていた。
 慟哭。怒り。悲嘆。ふだん新聞記事で使う安易な表現を、いっさい寄せつけない抑揚のない声色だった。
 それは4年目の新米記者だった私にとって、とうてい理解を超えた内容でもあった。
 巻きのゆるんだ固定電話のコードがだらりとぶらさがって、通話口から妙にノイズが聞こえたのを覚えている。

 記者3人の支局は、3階建て。とはいえ仰々しいものではなく、一階部分はくりぬかれて記者用の駐車スペース。2階が支局として記者の人数分の机が並び、3階は支局長住宅だった。つまり、御手洗さんの家族が住んでいたのだ。

家族同然で接してくれた御手洗さん一家

 小さくアットホームな支局だから、私は怜美ちゃんとも顔見知りだった。御手洗さんは事件の3年前に奥さんを癌で亡くしていて、仕事と子育てを男手一つ、今でいうワンオペでこなしていた。
 独身だった私も、3階に上がって、御手洗さんの手料理をごちそうになった。怜美ちゃんたち家族と夕食を共にすることもあった。

 だから、事件は私にとっても衝撃だった。
 身内同然に接してくれた上司の娘が殺され、それを記者として取材する――。
 振りかえれば、心を引き裂かれるような体験をした。

 事件の発生から、少女の補導、そして家裁に送致されて少年審判で彼女の処分が決まるまで、わずか半年余り。そのあいだ、目まぐるしい展開を追いつづけた。
 なぜ、この事件を無我夢中で取材できたのか。
「記者ならば、書け」
 御手洗さん本人に、そういわれたのも大きいと思う。

 以来、私は少年事件を追いつづけて20年が過ぎる。
 そのあいだ、御手洗さんはずっと新聞記者として、もっとも信頼できる先輩だった。
 そして、加害者への憎しみの言葉ひとつ発しない彼は、私にとって尊敬できる人物でもあった。

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