【べらぼう】尾美としのり「朋誠堂喜三二」、岡山天音「恋川春町」、桐谷健太「大田南畝」強烈な3人の文化人の意外な共通点
出頭を命じられた春町が選んだ最後
ところが、天明6年(1786)に田沼意次が失脚し、翌年、松平定信が寛政の改革をはじめると、田沼時代に開花した自由な文化は悪と決めつけられ、徹底した倹約が推奨されるとともに、武士は学問と武芸に精進するように導かれた。
そんななかで、喜三二は天明8年(1788)、寛政の改革の文武奨励策を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を書いて蔦重の耕書堂から刊行。さすがに秋田藩も、定信の弾圧の手が回ることを恐れたようで、喜三二に黄表紙の筆を折らせている。ただし、手柄岡持の狂名で詠んでいた狂歌は、その後も続けた。
恋川春町も寛政元年(1789)、やはり松平定信の政治を風刺した『鸚鵡返文武二道』を耕書堂から出版した。幕府の命で絶版にさせられ、定信から出頭を命じられたが、病気を理由に呼出しには応じず、隠居をしたのちに死去している。主家や養父に迷惑をかけないように自殺した、というのがもっぱらの見方である。
それにくらべれば、大田南畝は直接の圧力をかけられてはいない。しかし、つるんで吉原に通っていた勘定組頭の土山宗次郎が、横領の疑いをかけられ斬首されると、南畝も幕府から目をつけられたといわれる。このため、狂歌の筆を置き、執筆業は細々と続ける程度になった。
この3人の事実上の退場をもって、教養と時間がある武士が主導し、あたらしく力強い文学が続々と誕生し、開花した宝暦・天明文化の時代は終わったのである。
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