まじめ一筋で女性を知らずに結婚…「おそらく妻も」 お店で特訓して臨んだ49歳夫“試練の夜”の結果は
【前後編の前編/後編を読む】恋も行為も経験せず結婚したら…50歳間近での“初めて”に狂った夫 最終的に「死」までよぎった17歳年下との恋の果て
実直を絵に描いたような人ほど、不倫の恋にはまると何をやらかすかわからないところがある。若いうちに恋で苦しんだことがあれば、中年以降、情熱や欲望をうまくコントロールできるのだろうが、半世紀近く生きてきて初めて「恋に溺れた」場合は、なかなか制御するのがむずかしい。
【後編を読む】恋も行為も経験せず結婚したら…50歳間近での“初めて”に狂った夫 最終的に「死」までよぎった17歳年下との恋の果て
「そうですね。こんなことになるとは思ってもみませんでした」
憔悴した表情で、守田太一郎さん(49歳・仮名=以下同)はそう言った。3年間、恋に狂った。かけがえのない女性だった、だけど自分は彼女を幸せにはできなかったと彼はうっすら涙ぐんだ。
生き方も死に方も教えてくれた父
太一郎さんは幼いころから優等生だった。「まじめに生きていけ」という父親の教えをそのまま受け継いでいた。
「父こそ、まじめな社会人でした。田舎の貧乏な家庭に生まれた父は、中学を卒業して東京に出てきた。工場でコツコツ仕事をしながら、定時制の高校に通ったそうです。学歴がないから出世はできなかったと言っていましたが、それでも工場ではナンバー2の地位にまで上り詰めた職人でした。人より早く職場へ行き、誰より遅くまで仕事をしている。後輩には手取り足取り教えていたそうです。僕が大学に入ったときは誰よりも喜んでくれた。そして言ったんです。『まじめに生きていくんだぞ』と」
その父が工場で倒れたのは、彼が大学2年生のときだった。成人式に着ていくスーツは父がわざわざ老舗の洋服屋に一緒に行って作ってくれた。
「採寸して仮縫いしてという本格的なオーダーメイドです。たかが成人式、そんないいスーツはいらないと言ったのに、大人になったお祝いだからって。『こういう経験もしておいたほうがいい』と言ってましたね。いざというときにビビらない男でいなさいって。そのとき、靴もいいのを買ってくれたんです。今でも大事に保管しています」
一流のものを知る大人になれということだったのだろうか。だが、スーツができあがってきたその日、父は工場で倒れて還らぬ人となった。スーツを着た息子の晴れ姿を見ることはできなかったのだ。
「寡黙だったけど、父は生き方も死に方も教えてくれたと思っています。実直で情のある人だった。僕が高校1年のときに母が入院したことがあるんです。僕と2歳違いの妹がふたりで家事をやろうと話していると、父が『おまえたちはいつものように生活しなさい。ちゃんと勉強して時間があったらおかあさんのお見舞いに行くんだよ』と。父は朝早く起きて、僕の弁当を作ってくれた。夕飯もほとんど父が作っていました。でも父は料理なんて、おそらくやったことがないはず。カレーや焼きそば、チャーハンなどを一生懸命料理していた。母が入院していた40日間の後半には、豚の生姜焼きとか、ぶり大根なんかも出てきて、父の進歩にビックリしたのを覚えています。おそらく僕と妹の栄養を考えて、必死でがんばってくれたんだろうなと思います」
母に「冷たさ」を感じたことも
母が料理上手だったから、比べれば父のは決しておいしいとはいえなかった。だが彼も妹も父親の愛情だけはたっぷりと感じていた。言葉にしない分、父の愛情は確実に子どもたちに伝わっていたのだろう。
「父が亡くなったことは本当にショックだった。ただ、母は恬淡と受け止めているように見えました。両親が言い争うような場面を、僕はほとんど見たことがなかったけど、母に言わせれば『ケンカにもならなかった関係ということかな』と言っていました。若かった僕には今ひとつよくわからなかったけど、従来の感覚で、父と母は『生活のため』に結婚制度に乗ったんだと思います。もちろん、それが悪いとは思いません。母は高校を出て就職したけど、将来に特に希望も夢ももっていなかった。まじめな人と結婚して子どもを産み育てるのが当然だと思っていたようです。ふたりとも団塊の世代ですが、学生運動などは完全に対岸の火事だった。早くから労働をしていた人たちにとっては、自分の生活がいちばん大事だったんでしょうね」
母は少し泣いて、「これからきっと寂しくなる」とつぶやき、1週間後にはパートの仕事に出かけていった。母は夫に対して、甘い気持ちになったことはないのかもしれないが、おそらく誰よりも信頼していたパートナーだったはず。大げさに嘆き悲しまなかったから、当時は冷たいと思ったこともあったそうだ。
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