「生きるとは、限界を超えていくこと」 戦後80年に「加藤登紀子」が思い返す実母の言葉 同じ時期に日本へ引き揚げた“名優”との不思議な縁

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「知床旅情」を歌うまで

「私が初めて『知床旅情』を聴いたのは1968年3月。当時、同志社大学の学生運動のリーダーだった藤本敏夫が歌ってくれた時でした。学生運動の敗残者が、自分探しの無銭旅行に出るのが流行ってね。電車の改札を横歩きで素通りする姿から、“カニ族”なんて呼ばれていました。それで知床に行くとバスガイドさんが『知床旅情』を歌うので、耳に残ったんでしょう。大阪に戻って森繁さんのレコードを聴いてさらに好きになり、友人や知人に広めて行ったのです」

 加藤さんの「知床旅情」は71年度日本レコード大賞で歌唱賞を受賞。同年の紅白歌合戦に初出場を果たす。翌72年、東京拘置所に収監中だった藤本さんと結婚した。

 加藤さんの歌手人生の大きな転機となった曲だが、2022年4月23日、衝撃的な事故が起きる。斜里町のウトロ漁港から出発した小型遊覧船が、知床半島西海岸沖で沈没。乗員・乗客26名が死亡、行方不明となった。

「大変なショックを受けました。あの頃、あるテレビの番組で『知床旅情』を歌い、既に収録済みだったのですが、放送を取り止めたんです。私自身も、もうこの曲を歌うのは自粛しようとも思いましたが、この歌が今まで何を歌ってきたのか、改めて考えたんです。飲んで騒いで、恋もあって……壮大な人々の出会いと別れを歌ってきた。被災者の皆さんを追悼する意味でも、もう一度レコーディングしようと。事故のあった年の暮れに改めて録音しました。今回のアルバムにはそのバージョンが入っています」

 アルバムに収録されているカバー曲をもう一つ、紹介したい。「80億の祈り」である。千葉県の鴨川で農業をしている加藤さんの二女で、歌手のYaeさんが作詞・作曲した。2023年の夏、猛暑で夏野菜が枯れた畑で、Yaeさんが畑に突っ伏して泣いた時の思いを込めた曲である。

「夫の藤本は学生運動のリーダーでした。戦争に反対するためにデモや声を上げることはできる。でも、この世から戦争はなくならない。戦争を必要としない世界を作るためにはどうするか。初歩的なことではあるけれど、まずは自分の命を自分で耕して作るために、藤本は無農薬の有機農法運動に携わる自然農法家になりました。2002年7月に亡くなりましたが、その少し前に歌手になったYaeが今、農業もしています。私と藤本、両方の要素を受け継いでくれたのは感慨深いものがありました」

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