馬場・猪木「BI砲」最強伝説と不仲説を再検証…天国の“兄”に見せた“弟”の意地「あの人が前を走っていたから俺はここまで来れました」

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 ジャイアント馬場とアントニオ猪木が連れ立って銭湯を訪れたことがあるという。

 1968年6月16日(日)、岩手県一関市にある「白山湯」(※現在は閉業)にてである。この日、同市の千厩体育館で午後3時より、2人が所属していた日本プロレスの興行があり、その夜のことであった。同銭湯の脱衣所には、長きにわたり、その時の2人の写真が大きく引き伸ばされ、飾られていた。

「BI砲」――。

 日本テレビでプロレス実況を担当していた徳光和夫が命名したという、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のタッグチームは、1960年代後半から70年代初頭にかけて、恐るべき強さを誇った。一方で、その後、二人が全日本プロレスと新日本プロレスに団体として分かれると、その軋轢や反目が紙誌面をにぎわせたのも確かである。5月は、2人が初めてタッグを組んだ月であるばかりか、若手時代の2人が初対決した月でもある(※それぞれ、1967年5月12日、1961年5月25日)。「BI砲の真実」を辿ってみたい。(文中敬称略)

猪木が「一日先輩」

 2人は、1960年4月11日、力道山率いる日本プロレスに同時入門した――これが半ば公的な情報のようにされているが、実は猪木自身によれば、

「(力道山による)入門の発表は、私の方が一日早かった。翌日、道場に行ったら、馬場さんがいて、改めて2人揃っての紹介となった」

 とのことである。よく知られるように、1960年9月30日に2人は同時にプロデビューしたが、馬場が田中米太郎に完勝したのに対し、猪木は大木金太郎に惨敗した。田中について猪木は、「はっきり言って、誰でも勝てる相手」と評しており、実際、猪木もデビュー3戦目であたり、勝っている。

 猪木はこの年、28戦のシングルを闘っているが、相手の全てが先輩レスラーでありながら、13勝しており、扱いが悪かったとは言えない。しかし、一軍での先発も経験した元読売巨人軍投手である馬場との厚遇の差は、いかんともし難かった。5歳年上の馬場は、合宿所住まいである猪木と違い、力道山の経営するアパートでの1人暮らしが許され、しかも月々5万円の給料まで出ていたのである。

 2人の初対決は、デビュー8カ月後の1961年5月25日(富山)で、馬場が10分ジャストでフルネルソンで完勝。“入門の一日違い”を考慮に入れるなら、猪木が初めて後輩に負けた試合でもあったが、この時期の猪木がそれを気にしていた節はない。むしろ、差が決定的になったのは、初の海外武者修行から帰国する直前の1966年3月で、自分と日本プロレスの今後の契約が、年俸を元にした毎月の給料制でなく、シリーズごとの週給払いと聞いたときだった。

 これではシリーズごとに来日する外国人勢扱いである。猪木は先輩・豊登の持ち上げもあり、新団体、東京プロレスを旗揚げするも、あっという間に左前に。結局、翌1967年4月8日、タッグマッチの試合後、外国人レスラーに暴行される馬場を助ける形で乱入し、日本プロレスに正式復帰。同年5月12日の岐阜市民センター大会で、初の“BI砲”結成となった。

 相手はワルドー・フォン・エリックとマイク・デビアスで、1本目は反則、2本目はコブラツイストで猪木がいずれも勝利し、ストレート勝ち。テレビ解説の芳の里は、「10年タッグを組んでいたくらい、息が合っていた」とし、馬場も「負ける気がしなかった」とご満悦だったが、初戦は、あえて猪木の引き立て役に馬場が回った感もあった。

 団体の至宝であるインタータッグ王座は、BI砲で10月に奪取。BI砲での初の敗戦は、馬場が1ヵ月の海外遠征から帰国した直後のクラッシャー・リソワスキー、バロン・シクルナ戦で(12月1日)、1本目には猪木が、2本目には馬場が、それぞれリソワスキーにフォールを獲られ、ストレート負けしている。とはいえ、リソワスキーは椅子、鉄柱はもちろん、ビール瓶が入ったままのバケツや、客の食べていたミカンの皮までも凶器に使い、最後に馬場をフォールしたのもメリケンサックの乱打と、悪童そのもの。逆にBI砲のヒーロー感が際立つ部分もあった。

 結成から1年1ヵ月後となる、冒頭で紹介した銭湯の秘話がある大会まで、BI砲は38試合をおこない、負けたのは3試合のみ。この日は、会場となった千厩体育館の実質的なこけら落としイベントで(6月9日落成)、約1万7000人いる同町民の3割にあたる5300人が会場に詰め掛けた。同夜、日本プロレスは「白山湯」を貸し切ったのだが、レスラーたちを観ようと、店の前は黒山の人だかり。車が通れなくなるほどだったという。同銭湯経営者の、「皆、大きかったから、何度もお湯を継ぎ足した」との回顧もある。だが一方で、妙な逸聞も残っていた。

「猪木は男湯、馬場は女湯」に分かれて、入浴したというのである。

 実は日本プロレスはこの時期に、「馬場派」と「猪木派」に少しずつだが分かれつつあった。

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