馬場・猪木「BI砲」最強伝説と不仲説を再検証…天国の“兄”に見せた“弟”の意地「あの人が前を走っていたから俺はここまで来れました」

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馬場を挑発する猪木

 1つのきっかけは、前出の馬場の海外遠征だった。馬場の不在により、猪木が日本での実質的なエースを務めたのだが、この時期の観客動員が芳しくなかったのである。しかし、だからこそ逆に、極めて練習熱心だった猪木に肩入れする層も出て来ていた(取締役のユセフ・トルコ、遠藤幸吉など)。馬場派との対立や反目こそ顕在化しなかったが、猪木の精神的な後ろ盾になったのは確かだった。

 そして、馬場をライバルと目した猪木の追撃も、表面化していくことになる。

 自らのフィニッシュホールドだったコブラツイストを、馬場が「ジャイアントコブラ」として使い始めると、BI砲での試合で新しく卍固めを披露し、控室に馬場がいる目の前で、こう言った。

「まあ、コブラツイストは、誰でも使える技ですし」(1968年12月13日)

 1971年5月には、団体の決勝トーナメントで勝ち進めず、控室で馬場に挑戦表明。しかも馬場がトーナメントの決勝を戦っている最中にマスコミを呼び寄せる、無作法とも取れるタイミングだった。

 1972年に新日本プロレスを旗揚げすると、舌鋒は更に鋭くなる。1977年1月には、全日本プロレスを旗揚げしていた馬場との貴重な同席の機会である「プロレス大賞」の挨拶の場を利用した。

「馬場さん、今年は日本選手権をやりましょう。統一戦をやりましょう。……ニッコリなさったところを見ると、馬場さんもご異存がないと、判断して宜しいですね?」

 そして、1979年8月、東京スポーツ主催のオールスター戦で、8年ぶりにBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンを下すとマイクを持ち、いきなり馬場に宣戦布告した。

「今度このリングで顔を合わせる時は、戦う時です!」

 馬場もマイクを渡され、「よし、やろう!」と返したが、猪木による見切り発車の感は否めなかった。1980年12月には、馬場と強固な繋がりのあった全米のプロレス組織、NWAを「超える組織を作りたい」として、世界中の強豪を集めた「IWGP」構想を口にする。翌年12月、新日本プロレスの主力だったスタン・ハンセンを全日本に引き抜かれると、猪木は、怒り狂う胸の内をこう吐露している。

「今後開発したい技は、馬場さんを睨んだだけで殺す“睨み殺し”です。馬場さんは、松葉杖を用意した方がいいんじゃないか?」

 傍目から観れば、馬場と猪木は犬猿の仲であった。

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