馬場・猪木「BI砲」最強伝説と不仲説を再検証…天国の“兄”に見せた“弟”の意地「あの人が前を走っていたから俺はここまで来れました」
二人の本当の仲は?
ところがである。筆者の携わったテレビ番組に、元東京スポーツ記者で長くプロレス取材に携わった柴田惣一氏に出演して頂いた際、意外な話を聞いた。
「1984年4月(4日)、全日本プロレスの取材に岡山駅に降り立ったら、偶然、猪木さんがいたんです。折角なので、『全日本の会場に、一緒に行きませんか?』と言ったら、快諾してくれて」
会場の岡山武道館のリング上で練習中の馬場に会った猪木は、2人でニコニコと話し込んでいたという。
「あとから聞いたんだけど、猪木さんは岡山にあったバイオ事業の研究所を訪問した帰りで、馬場さんに、その事業のためのお金を無心していたみたいなんです。馬場さんはやんわりとかわしていたみたいだけど、本当に仲が悪ければ、お金を借りに行くなんてないと思うんですよね。馬場さんは猪木さんより5歳上で、猪木さんが17歳でプロレス入りしたとき、22歳。ライバルというより、兄貴として見ていた気持ちが強かったと思いますよ」
筆者がインタビューした時も、猪木はこう語ってくれた(※引退後のインタビュー)。
「正直に言うと、馬場さんと戦いたいという気持ちは、随分前になくなっていたんです。(モハメッド・)アリと戦う前あたりからかな。お互い、プロレスにおいて目指すものが違っていたというか。だから、対戦を期待していたファンには申し訳ないけど、新日本プロレス自体を目立たせるために、あえて馬場さんを挑発し続けていたといった部分はありましたよ」
前出の柴田氏も、取材にこう語っている。
「猪木さんの執拗な挑戦表明を、馬場さんはムキにならずに、落ち着いてかわす。そのことで、馬場さんにも良いイメージがついたと思うんです。大人としての余裕を感じさせるというか、泰然自若というかね。猪木さんもそれをわかっていて、きかん坊のような弟になれた。だから、振り返れば、お互いを活かしあった、良いコンビだったと思うんですよね」
猪木は1969年5月、馬場も優勝した日本プロレスの「ワールドリーグ戦」で初優勝した際、こうコメントを残している。
「やっと追いついた。あの人(馬場)が前を走っていたから、俺はここまで来れました」
一方、馬場は、オールスター戦で猪木と8年ぶりのタッグを勝利で終えると、報道陣にこう語っている。
「我々のコンビネーションというのは、一を言えば、十分わかり合えるから(笑)」
その後も、2人の目撃情報は、枚挙に暇がなかった。変わったところでは1987年3月18日、帝国ホテルで会食し、店に連名のサインを残している(現在は都内の沖縄料理店に現存。全日本との契約を破棄した長州力についての会談を持ったとされる)。猪木引退のちょうど1ヵ月前となる1998年3月4日には、猪木の行きつけであるホテルオークラの喫茶店に、何故か馬場が来店。ちょうど店を出る時、猪木が来店し、猪木から馬場の元に出向き、「どうも!」「よぉ!」と笑顔で挨拶をかわしている。馬場が急逝する前月には、これまた都内のホテルのロビーで偶然出会い、30分ほどお茶をしたという。
そして、馬場の死後も、2人の結び付きは続いた。
「馬場さんの前で、そんな恥ずかしい姿を見せられるか!」
2019年2月19日、両国国技館でおこなわれた「ジャイアント馬場没20年追善興行」のオープニングに猪木が現れ、リング下からマイクで、こう挨拶した。
「最後に(馬場さんから)来た手紙が『三途の川で待ってるぞ』と。本当は、リングに上がろうと思ったんですが、上がったら挑戦状を受けたということになりそうなんで下からご挨拶させてもらってます」
取材しながらこう思った。猪木がリングに立たないのは、偉大な先輩であり、兄貴分だった馬場への配慮なのだと。後日発表された、猪木の事務所側からの公式のコメントにも、以下のようにあった。
「『夢のオールスター戦』で、“次にこのリングに上がるときは対戦するときです”、と約束した。それを大事にしているから上がらなかった」
なんとも粋だと思った……だが、真相は大きく違っていた。
この日は、馬場の往年のライバル、アブドーラ・ザ・ブッチャーも来日。車椅子生活のブッチャーは、設置された昇降機を使い、リングへと上がった。実はこの時期、猪木も車椅子を常用。逆に言えば、とてもリングへの鉄階段は登れぬほど、膝の調子が悪かったのである。よって、側近は当日、ブッチャーと同じく、昇降機でのリング登場を打診した。すると、猪木は激高し、「何とかする! 見てろ!」と言い、上記のアドリブで、リングに上がらないままの登場を終えた。側近には、昇降機を使うことに対し、こう激怒したという。
「馬鹿野郎! 馬場さんの前で、そんな恥ずかしい姿を見せられるか!」
それは、プロレスラーとしての兄に奔放に甘えて来た弟が、だからこそ見せたかった沽券ではなかったか。
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