フィリピンで手術中に無念の最期「ジャンボ鶴田」 “最強王者”が最初に訴えた異変は「だるい、疲れる」
レスリングの五輪代表選手、全日本プロレスのスター、そして教育者――。2000年5月13日、「完全無欠のエース」「怪物」などと呼ばれたジャンボ鶴田さんがこの世を去った。それから25年が経ったいまも、臓器移植手術中に大量出血という死因は強烈な印象を残す。生前の鶴田さんを知る者たちが語った、手術までの経緯とは。
(「週刊新潮」2000年6月1日号をもとに再構成しました。敬称一部略)
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【写真】「ジャンボ鶴田」を発掘した「ジャイアント馬場」 特大ベッドに横たわるレアな姿も
超人的なスタミナ
壮絶な死だった。肝臓癌の末期と診断された元プロレスラーのジャンボ鶴田(49)は、臓器提供者を求めて彷徨った。だが、やっと辿り着いたフィリピンの病院で手術中に大量出血。急死してしまったのだ。
「ジャンボで忘れられないのは底無しのスタミナです。長州力と何度か60分フルタイムで闘いましたが、長州の方は息を切らしているのに、彼はケロッとしていましたね」
こう振り返るのはプロレス評論家の菊池孝氏である。
「とにかく超人的なスタミナで、試合後、合宿所まで走って帰ったことがありました」
そんなタフネスぶりを誇った鶴田に変調が訪れたのは平成4年の秋だった。親しいプロレス誌の記者はいう。
「ジャンボが『疲れる、だるい』と訴えたのです。周囲がびっくりして検査を受けさせたところ、B型肝炎と診断されたのです。見舞いに行ったら、ベッドで点滴を受けていました。彼の説明では、肝臓に巣くったウイルスを無くし、黄疸を消す治療をしている、ということでした」
7カ月後に退院。復帰したものの、かつての勇姿はなかった。125キロあった体重が110キロに減っていた。
「体内にウイルスが残り、全シリーズの参戦は難しく、1カ月に1試合程度しかできませんでした」(同)
米国で大学の客員教授に
第一線を退いた鶴田は平成6年、新たな道を歩む。筑波大学大学院に入学し、コーチ学の勉強を始めるのである。
病魔を抱えての第二の人生だったが、昨年3月、正式にプロレス引退表明後、家族とともに渡米。ポートランド大の客員教授に就任した。
「むこうではゴルフをしたり普通に暮らしていたんです」
とは先のプロレス誌記者。
「ところが、去年の秋に体調を崩し、12月25日に帰国。神戸の病院に入院したのです。そこで肝臓癌が発見されました。医師は移植手術以外に助かる可能性はない、と宣告しました。医師の勧めで移植で有名な岐阜県の病院に転院したのですが、国内にはドナーが少なく(編集部注:親族に限定されているため)、すぐに手術ができない。そこでオーストラリア行きを決断したのです」
事情を知る友人はいう。
「オーストラリアの移植の権威が鶴田さんと知り合いだったのです。同じO型のドナーが多いことも決め手でした」
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