中村雅俊さんに「監督をやらないか」 伝説のドラマ「俺たちの旅」 脚本家・鎌田敏夫氏が明かす半世紀
最後にはせつなくて泣かせる
――大人気作でしたからね。
連ドラの視聴率は絶好調というほどは高くはなかったんですよ。当時は「20%に届かない番組はダメ」という時代でしたが、若手のプロデューサーの中村良男さんと「20%にいかないようにしようね」と話し合っていた。今になって思うと贅沢な話ですけど、理由があって、視聴率を取り過ぎると、テーマが分散してしまう、このドラマのテーマは男の身勝手でした。特定の層でいいから強くアピールしたいと思っていた。
――テーマは友情だと思っていましたが、男の身勝手だったのですか。
ええ。放送枠だった日テレの日曜午後8時台は当時、青春シリーズなど高校生ものばかりでした。次のドラマの企画会議をしていたとき、岡田プロデューサーが、次は「大学生ものをやりたい」と言った。ぼくは「大学生ものは当たらない」とかなり反対した記憶があります。
大学生って中途半端でしょ。高校生の純なところもなければ大人の矛盾もまだ持ってない。しかも、当時、男の大学生はドラマをほとんど観ていなかったんです。日本のドラマをバカにしていたのかも知れません。
岡田さんは違う意見を面白がってくれる人なんです、ぼくも反対しながら辞める気はなかった。じゃあ、どうすれば大学生ものを面白く作るのか、ドラマを見ていない男にどうやって見せるのか、みんなで考えていたと思います。
ぼくは、そのとき、「思いっきり男のエゴをドラマにしよう」って思っていたんです。そんなドラマはなかったから。カースケが「2人の女を愛して何が悪いんだ」って言ったりして(笑)。男のエゴを描きながら、最後にはせつなくて泣かせるのが、あのドラマでした。
――カースケたちが興した便利屋は「なんとかする会社」でしたね。
東京電力を辞めた人が、たまたまドラマを見ていて、これは儲かると便利屋を立ち上げたと週刊誌の対談で語っていました。
――「ドラマを観て上京した」とか「グズ六の母校である早稲田大を受けました」とかいう人が結構いるんですよ。
早稲田大学も、からかっているだけなのに(笑)。3人の生き方を描いたドキュメンタリーみたいなドラマだったと言ってくれた人もいます。今でも通じるテーマでやったから何十年も再放送をしてくれたんだと思います。
――「10年目」以降、大きくなっていったのは洋子の存在です。大学時代、カースケに思いを寄せていた洋子は結婚しましたが、夫から離婚を切り出されました。
最初、金沢碧さんは視聴者からあまり評判がよくなかったんですよ。
吉祥寺でのロケで、その時は番組が人気になっていたから、深夜なのに見物人もかなりいて、斉藤監督が独特の言葉で(ここでは言えないけど)叱咤して、台本で引っぱたいた。金沢さんも訳が分からなくなって、閉じていたシャッターにぶっつかっていくシーンがあるんです。このシーンのあと、碧さんの芝居ががらりと変わった。これが演出家だと思いました。斎藤監督の力です。
――米子の海岸で、カースケから「(旦那と)別れたら、俺のところへ来ないか」と声を掛けられ、「津村くんに同情されるなんてイヤ!」と叫び、砂浜を走り去るシーンは圧巻でした。
「10年目」のクランクアップ時には金沢さんとぼくがスタッフに胴上げされたんです。女優と脚本家が胴上げされるなんて普通はありませんよ。ぼくもそうですが、みんな金沢さんが演じた洋子というキャラクターに恋をしていた。
――「30年目」で洋子が病死していたことが分かります。
監督たちと飲んでいたときに、金沢さんを呼んで、ぼくが「次は洋子を死なせるから」って伝えたところ、彼女にポロッと泣かれた。
――金沢さんにとって特別なドラマだったんでしょうね。
続けたかったんだろうと思います。でも、彼女とカースケのドラマはほぼ終わっていたし、脇役で出てもらうのは忍びなかった。「死んだら主役になるから」と、そのときは訳の分からないことを言ったんだけど、その通りになった。
「50年目」は最後の物語
――確かに「30年目」では死んだ洋子が主役でした。カースケたちは洋子との人生を考え続けました。
「50年目」も、カースケと洋子の最後の物語になっています。
――ほかにも数々の大ヒット作を執筆されました。TBS「男女7人夏物語」(1986年)、同「男女7人秋物語」(1987年)も話題をさらいました。どうして6人とか8人ではなく、数の合わない奇数人数にされたんですか。
ドラマは奇数がいいんです。何事も、割り切れない方が面白いでしょ。「男女7人」で描きたかったのは「恋愛は厄介なものだから、しない方がいい」ってことでした。恋すると、思ってもみなかった自分が見えてくるし、相手の心も見えてくる。こんな厄介なことはない(笑)。
――「夏物語」は当初、夏目雅子さんにとって初の主演連続ドラマになるはずだったと聞きます。
そう。武敬子プロデューサーが決めていた。夏目さんが主役だったら、別のドラマになっていただろうけど。あのとき、夏目さんは渋谷のパルコ西武劇場で芝居をしていた。ぼくも、すぐそばに仕事部屋があったんだけど、芝居は最後の方が落ち着くからと夏目さんに言われて待っていたら、途中降板になってしまった。夏目雅子さんの「夏物語」、悲しい思い出です。
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