中村雅俊さんに「監督をやらないか」 伝説のドラマ「俺たちの旅」 脚本家・鎌田敏夫氏が明かす半世紀

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放送50年を機に映画化

 日本テレビが1975年に放送した青春群像劇の名作「俺たちの旅」が、放送50年を機に映画化される。中村雅俊(74)が演じたカースケこと津村浩介、秋野太作(82)によるグズ六こと熊沢伸六、田中健(74)が扮したオメダこと中谷隆夫の現在地が描かれる。脚本を書き続けている鎌田敏夫氏(87)にインタビューした【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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――映画化が決まりました。50年も続くロングランとなった作品は世界的に例がありません。

 そうですよね。出演者が交代したり、リメイクされたりした作品はありますけれど。ドラマそのものが何十年も続いているドラマはないと思います。

――連続ドラマ版の撮影開始までには紆余曲折があったそうですね。

 村野武範さんと水谷豊さんと中村雅俊さんでやるとプロデューサーの岡田晋吉さんに言われていたんですが、新人だった中村雅俊さんが主題歌「俺たちの旅」を歌うことになって二人とも降りてしまった。

――気持ちは分かります。結果的に秋野さんの演技は素晴らしいものでした。ダメなインテリだけど、やさしいグズ六を名演しました。

 そのうえ女性が好きでね(笑)。秋野さんは、岡田さんに頼んで入れてもらったんです。当時の雅俊さんと田中健さんの演技は頼りないと思っていたから(笑)。撮影開始後、ロケ先で秋野さんに「あなたが頼りだから」と伝えたおぼえがあります。

――舞台となったのはカースケ、オメダ、グズ六の3人が暮らしていた吉祥寺(東京都武蔵野市)。どうして吉祥寺を選んだのですか。

 選んだのは吉祥寺ではなく井の頭公園です。井の頭公園駅は改札口を出ると、すぐ公園になる。近くには街や喫茶店もあり、公園を抜けると住宅街が広がっている。近くに吉祥寺という大きな町もある。そんな場所は他にはないと思って、「井の頭でやりませんか」と言ったんです。

吉祥寺が全国区に

――このドラマもあって、吉祥寺の知名度は全国区となり、若者に大人気の街になりました。

 そうですね。

――しかし、カースケとオメダ、カースケに思いを寄せていた山下洋子(金沢碧)が通う修学院大学は架空でした。モデル大学はあったのですか。

 ロケは武蔵大学でやらせてもらいましたが、ドラマの大学はもっとランクの低い大学です。それなのに、カースケがバイト先の工員にからまれて、「大学生を差別するのか」と、逆に居直るシーンがある(笑)。

――放送は当初、6カ月(2クール)の予定でしたが、好評を得たことにより、1年間に伸びました。苦労されたのではないですか?

 評判が良いと半年から1年に伸ばすというのは当時の岡田さんのドラマの定番だったんですよ。ぼくがメインライターだった「飛び出せ!青春」(1972年)もそうだった。時間をつくったスタッフや役者さんたちは大変だったかも知れないけど。

――過去にはスペシャルドラマ「俺たちの旅 十年目の再会」(1985年)、同「二十年目の選択」(1995年)、同「三十年目の運命」(2003年)がつくられました。今度は映画。どういう経緯で制作が決まったのですか。

 ずっとこの作品に携わっていたアシスタントディレクターだった佐藤重直さんに「次をつくりましょうよ」としきりに言われていたんです。実は40年目のときも「つくろう」という話があったのですが、監督だった斎藤光正さんがお亡くなりになってしまい、出来なかった。

 斎藤監督はなんでもないシーンに水たまりのカットをポンポンと入れるなど独特の映像をつくる人だった。「五十年目」は映画でということになって、斎藤監督のタッチを一番よく知っている中村雅俊さんに、「監督をやらないか」と、ぼくが持ちかけたんです。

――近年の地上波は年齢層が若めの視聴者を狙います。コアなファンの年齢層がやや高いこの作品は映画のほうが向くかも知れません。

 既に150館ぐらいでの上映が決まっているそうです。ぼくは「小さな名画座みたいなところでやって、それが全国へ波及していけばいいんじゃないか」と思っていたんだけど、3人のその後の人生を見たい人は意外と多いみたいで。

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